●引用、メモ。『来たるべき思想史』(清水高志)、第四章「媒体(medium)論」より。ここではポスト構造主義の源流としてのデカルト-スピノザが批判され、それに対しライプニッツが提示されているのだが、よくあるポスト構造主義批判とは全然違っている。根本的な方向性が異なる。とても面白くて興奮した。
デカルト-スピノザ的な世界は、諸観念が原因-結果によって結びつき、その無限の連鎖として示されるが、ライプニッツにおいては、諸観念は原因-結果によってではなく、質料という媒体(の能動的な力)によって、恣意的、重層的、多方向的に結びついている、と。ぼくには、ここでのデカルト-スピノザ批判が妥当なものであるかどうか判断する能力はないけど、それとは別に、ここに書かれていることは、目からうろこが落ちる、というか、このパースペクティブを受け入れると色々と腑に落ちることがある。例えば、下記の記述を読んで、ぼくは青木淳悟や小林耕平の作品を想起せずにはいられない。
●「観念」と「質料」について。観念とは一が多を集めているものである。
《ここに一つの円錐形の物体があり、それを切断することによってさまざまな断面を形づくり、いくつもの円錐曲線を見出すとする。この場合、これらの具体的で多様な円錐曲線は、いずれも何らかの二次曲線の形式において表現されるものである。つまり二次曲線の観念は、それらの具体的な円錐曲線を含んでおり、ここにはかつてミシェル・セールが述べたような、「一=多」の関係が見出される。》
●そして、デカルト-スピノザは、そのような諸観念を関係づけ、ドミノ式に連結させることで世界を捉えようとする。
《実際デカルトは、『方法序説』のうちで、屈折光学や気象学に関して、「そこでは諸々の理由が相互につながっていて、後のものはそれらの原因であるところの、初めのものによって論証され、初めのものはそれらの結果であるところの、後のものによって論証される」と述べている。彼によれば、そうした自然現象の説明においては、結果が実験によって証明されていることが、かえってその結果そのものを説明している原因の正しさをも、同時に証明することになるのだという。》
《こうした原因と結果の相互性についての特異な考え方は、デカルト本人よりも、むしろデカルト哲学の徹底的な読解によって成立している、スピノザの意見を参照した方が、より一層明確になる。》
スピノザによれば、「半円が回転する(近接原因)ことは、それ自体では単に恣意的な運動にすぎない。しかし、それによって「球が生じる(結果)」という結果がもたらされるのであれば、球という結果と同時に(球という結果によって事後的に)この運動が、必然的な定義であることが理解されるのだという。近接原因は、この場合結果にとって、それが成立するための必要十分条件をなしている。こうした近接原因と結果が、ドミノのように継起して連続することによって、諸観念の連鎖が形成され、それがこの世界の全体を説明するとみなされるのである。》
デカルトスピノザにおいて構想された諸観念の連鎖は、諸々の事物を(「一=多」関係の)一の部分の連鎖へと還元していくものであるといえるだろう。彼らの指向においては、質料的な差異はそれぞれの観念に伴ってはいるが、境界画定を通じてそれらの観念が結びついている(連鎖している)限り、その確定のたびにそれら質料はいわば捨象されてしまう。》
●そのような観念起点の思考に対し、ライプニッツは質料を起点として世界の連続性を考える。そしてそれは、「証明」というものの意味を変える。
《質料性(あるいは諸現象の事実)というものがもっている連続性、そしてそれが諸観念を結びつけつつ自己を説明し、開陳してゆく運動にこそ、ライプニッツは着目する。自然は飛躍せず、そうした自然における現象の運動にそって諸観念を明らかにしていくことが、最も多くを知ることへと人を導く(連続律)と、彼は考える。》
モナドジーとは、まさにこの一点についての信仰なのだ。ここから彼は世界の全体性を考えようとする。そうした連続性を証明できるかというなら、それは困難だろう。しかしそうした前提をすることによって、かえって諸現象や諸形相そのものについて多くが理解され、知られるのであれば、そのことをもって証明とすべきなのではないか。事物のうちにおいてこそ、真理も誤謬もある、と彼は語るのだ。》
●「観念」を「恣意的」、「重層的」に結びつける「媒体」としての「質料」
《たとえばここに、底面の直径が四・五センチ、高さが六センチの円筒形の湯飲みがあるとする。その表面は焦げ茶色であり、材質は唐津の陶器である、といった性質をそれがもっているとする。この場合、それが円筒形であるのなら底面や高さをもっていることは不可避である。しかしその底面の直径が四・五センチであることや、高さが六センチであることなどは、スピノザが言うように、恣意的な結びつきであるにすぎない。その材質や、色彩についてももちろんそうである。》
《(…)事物そのものにおいて、諸観念が結びつくというとき、それはこの湯飲みにおけるように、ほとんどの場合線形的にその因果上の結びつきを理解することができない、恣意的な結びつきにすぎないのである。世界の全体性や自然界の現象の連続性をいうのであれば、通常はこうした質料的な、具体的な事物を媒体にした結びつきによって、それが導かれると考えるのでなければならない。》
《(…)「一-多」関係の一の部分をドミノ状に連鎖させていくのと、質料性に根差して、多の部分の連続性に自然界の現象の多様性が現れる起点を見出すのでは、結び付けられるものの関係が、おのずと異なっている。後者においては、各々の要素はあくまでも水平的に、相互的に結びついており、媒体としての具体的な事物は、この相互性を重層させるようにして媒介しているのである。つまりこの水平性の重層こそが、具体的な事物に、その多様な性質を与えているのであり、第二質料に能動的な性質が認められるとするならば、それはそれがこのような意味での重層を媒介する作用をなすからである。》
《(…)それをさまざまな角度からためつすがめつ見た場合に、その物体がさまざまな観念を、恣意的なかたちで結びつける、その組み合わせの重層こそが、その物体に多様な性質を与え、それがその物体に現実性を与えているのである。》
●第二質料=モナドの媒体としての能動性。「恣意性」を越える「組み合わせ」。
《そうした意味で、モナドジーを、徹底した相互主義の基盤となりうる媒体としての質料に潜行し、そのことによってデカルトにおいては人間の認識の対象としてしか考えられていなかった現象世界そのものに、能動性を与えた世界像であると見なすことができる。相互性の重層は、この場合媒体としてのモナドが能動性をもち、世界の全体性へと連なることの指標である。(…)ライプニッツにあっては、この相互性の重層と、組み合わせ的な多様性そのものが、その世界像の成立の指標となっているのだ。ライプニッツにとっては、組み合わせは単に恣意的なものではない。たとえばアルファベットの文字が、その一つひとつの要素を見れば、恣意的な記号であったとしても、組み合わせによってこそ、それは恣意的なものでなくなる。事物の多様性を表現し、理解するための柔軟さは、表意文字のように表現し、理解するための諸要素を見出し、その数を増やしてゆくことでなく、むしろ諸要素の組み合わせによって可能になるものなのだ。》
●そして、デカルト-スピノザ的な「全体性」への批判。
デカルトスピノザにおいても、原因と結果が相互的に成立するという関係が見られ、その限りにおいて諸観念の連鎖は、つねに相対化の過程でもあった。とはいえ、それは個々の原因結果については相互的であっても、その相互性をいわば垂直に積み重ねるようにして、連鎖の不可逆な関係を形成してゆくことによって、世界の全体性に至ろうとするものであった。その連鎖、その相対化の過程は、また懐疑の過程でもあるが、そこで懐疑され、あるいは先取り的にあらかじめ前提されてしまっているものは、まさにこうした「世界の全体性」、そのものであるにほかならない。》
ライプニッツにあっては、あくまでも水平的にその相互性の重層において、懐疑されたり是認されたりしているのは、個々の具体的事物である。第二質料が、媒体としてその純粋な性質をあらわにするとき、それは別の第二質料についても、その構造を明らかにし、そこでの諸要素の結びつきの意味するところを理解させるが、そうした照応関係は、まったく離散的なものである。》
《すなわち、それが何らかのかたちで、直接に作用原因と結果という意味において結びついている必要はここではなく、またそうした連鎖系列の全体を人間が知りうることを、はじめからライプニッツは前提としていない。》
《別の言葉でいえば、デカルトスピノザ的な相対化は、全体性を「残余」として想定したときに、はじめて成立する相対化なのだ。》
《またフッサール現象学も質料性ということに着目したが、それはあくまでも質料を、統一する力としての志向作用の基盤として洞察したのであり、受動的なかたちにおいてであれ、統合という観点からまず諸現象の調和を考え、その延長戦上に世界の全体性を確立しようとしていたことは確かである。フッサールは、現実の生活世界において生起しているもの、それがすでに、カントの構成的なプロセスのうちで実現されようとしていたものでなければならないと考える。》
《これは、デカルトに対して、スピノザが行った発想の転換を、そのままカントに対しても適用したものであるとみなすこともできよう。プロセスの最終段階にあらかじめ視点を移し、そしてそれこそが端的でかつ日常的なものであると主張し、そうした現実の世界の肯定と引き換えに、われわれには人為的な能動性を、ある意味で断念することが求められるのだ。》
●諸観念の幾何学的な連鎖とは異なる、モナドのネットワーク状の多様性について。
ライプニッツにあっては、先に述べたように、世界の全体性およびその連続性は、質料性を媒体にすることによって得られる。そしてそのための指標は、具体的に事物において、相互限定の重層という形態をとりながら、諸観念が組み合わせられること、そしてそのことによって、質料性が現象の起点としての地位を得ることである。この水平的な相互性の重層の関係にあっては、諸観念は連鎖という形態においてではなく、ネットワーク状の結びつきをしている。》
モナドが多様なかたちで形成されることは、それが形成されるあり方そのものが多方向的であることを意味しており、またこの多方向性が増大していくことは、この世界そのものの組み合わせ的な多様性が認識されていくことである。》
《この場合、諸観念の不可逆的連鎖が、オートマチックに拡大していくことは、そうした多様性の増大を、むしろ制限してしまうものでしかない。ライプニッツの方法論は、スコラ的な意味での、「隠された性質」を懐疑するだけでなく、幾何学的知性に代表されるような人間理性の尺度が、現象に対してどこまでもあてはめられてゆくこと、それ自体に対する懐疑をも、自らのうちに含んでいる。》