●苦労した書評の原稿、ゲラの段階でも、昨日、今日と、延々ぐちゃぐちゃと直してしまう。でも、「直す」って言ったってゲラの段階で出来るのは結局「言い方」の問題でしかないんだよなと思いつつも、でもその言い方が適切かどうかっていのうも重要なはずなんだ、と思い直したりしながら。
●『ピストルズ』、読み終わる。前半を読んでいる時は、こんなにへんな形の小説だとは予測できなかった。これは要するに、長編小説というよりも、短編小説に長大な「前振り」がくっついている、とみるべきなのではないだろうか。第六部まで延々と前振りがつづき、第七部が本編で、第八部と補遺がエピローグ。この異様なバランスの悪さがそれ自体として面白い。しかも、面白いのは長々しくもいかがわしい前振りの方で、本編が一番面白くないという…。それまで胡散臭くも壮大だった話のスケールが、本編に向かってぐーっと縮小されるし(結局また、街の不良の話かよ、みたいな)。
でも、この本編の面白くなさはかなりの程度意図的なんじゃないかとも思われる。それは、《さまざまな既成作品の引用や模倣で構成された安手のフィクション》と自己言及されるこの作品で、第七部はまさに「阿部和重自身の自己模倣」のように感じられるから。クライマックスに、もっとも空虚なもの(自作の鏡像、あるいは模型のようなもの)を仕込んでおく。それまで、丁寧に、延々と積み上げてきたものを、空疎な本編へと収斂させることで帳消しにしてしまう、みたいなことが意図的にもくろまれているかのようにみえる。これは、昨日も書いた、「相殺してゼロにしたい」という欲望が、この小説では最後まで徹底されているということでもあるのではないか。
さらに、最後の補遺で、『ピストルズ』というこの小説全体が、三部作の三作目の前振りというか、予告編でしかないかのような印象をあたえて終わりになる。まるでこの小説全体が、みずきの反転形であるカイトの存在を空白として浮かび上がらせるためにあったかのような印象になってしまう。さあ、これから本編であるかカイトの話がはじまります、みたいな。これも、ものすごく緊密に織り上げてきた様々な細部や力の総体を、最後にちゃんとチャラにしておかないと気が済まない、というようなことだと感じられる。勿論、それは決してチャラにはならず、チャラにしとかないと気が済まないという行為の(意志の)過剰さの方が際立つことになるのだが。小説というのが、記号を歪ませたり屈折させたりするための装置だとするならば、この小説は相当すごいことをやっているのではないか。
樫村晴香保坂和志との対談でしていた話。ある男が、道に落ちている石を見て、それで恋人が転んでしまうのではないかと不安になって道端によけておく。しばらく先に行ってから、男は自分のした行為の異常さに気づき、引き返して石をもとの場所に戻す。男は、自分の最初の行為の異常さには気づいても、わざわざ石をもとの位置まで戻すという行為の異常さには気づかない。
ピストルズ』を読むと、それに近い行為が壮大なスケールと繊細な手つきとでなされているように感じられる。この小説の登場人物は誰一人、人間としての厚みをもたないが、この小説全体のメカニズムとして、その記号や諸力の屈折のあり様として、人間の奇っ怪さを体現している、というような。
●あたりまえのことだが、作家というのは一人一人まったくことなるやり方で小説を組み立てているのだなあと思う。