モデルとポーズ

●乃木坂の国立新美術館で、モネ大回顧展と、「異邦人たちのパリ/1900-2005」、青山のナディッフで、田中功起サウンド・テストほか」、神楽坂のアユミギャラリーで、井上実・展(二度目)。
●昨日のデッサン会で来ていたモデルは、ポーズのひとつひとつがいちいち決まっていて、しかも指先まできっちり意識が行き届いているのが分かった。(かなりキツいポーズをしているはずなのに、無駄な力がはいってなくて、全体としてはリラックスした感じで、しかもポーズ中ほとんど動かない。「動かない」ってことがどれだけ大変なことか。)こんなにすべてのポーズが面白いモデルは、ぼくははじめてで、いままで「いかにもクロッキーのポーズ」みたいなのをそつなくつくってくれる手慣れた人はいたけど、そんな「いかにも」な感じではなくて、ポーズそのものとして、すごく面白いのだった。「いかにもクロッキー」というポーズは、例えば「いかにもグラビア」なポーズと同様(といってもポーズ自体は全然違うけど)、いくつかの基本パターンの組み合わせで出来ていて、首の方向と、両肩、腰、膝、足の向きをどのように組み合わせて流れをつくり、それに両腕をどのように絡ませるかというようにつくってゆく。このモデルも基本的には同じで、特に突飛なポーズをっているというわけではないのだが、身体の隅々にまでくまなく神経が行き渡っているので、同じようなポーズでも全然違うのだった。
「いかにも」モデル立ちとか、「いかにも」グラビアのポーズとか言う時の「いかにも」という感じは、不自然なわざとらしさを感じているということと、それが紋切り型でしかないという退屈さを感じているということだと思う。(手慣れた=擦れた感じというのは、そのような紋切り型ばかりを習得してしまった時に起こるのではないか。)それに対して、自然で、かつ、面白いと感じるものは、それと全く違うことをしているのではなく、ほとんど同じようなことをしていながら、それを(外的)パターンとして、パターンの組み合わせとして認識し、組織しているのではなく、まったく別の(内的な)原理によって組織し、その必然性にしたがって全体を制御(あるいは制御を放棄)している時なのだろうと思われる。神経の行き渡り方の違いっていうのは、そのポーズを組織する根本的な動機の違いによるのではないだろうか。(まず基本としてパターンが認識され、その上で、より高度な段階として「神経を行き渡らせる」という段階があるというような捉え方では駄目なのだと思う。それははじめから、神経を行き渡られる必然性をもつものとして捉えられているからこそ、その必然性によって、神経を行き渡らせることが可能になるのだろう。)勿論、それを可能にするためには、それが出来るような身体にするために鍛えられていないといけないのだが。昨日のモデルはおそらく何かしらの身体的な表現をやっている人で、日常的に身体的鍛錬をしていると思うのだけど、でも、「いかにも」筋トレで鍛えたというような、筋骨隆々とかいう感じとはまったく違っていて、華奢な感じで、無駄な肉もないけど、目立つ筋肉もない感じだった。