●『化物語』のDVD一本目(「ひたぎグラブ」)を観ていて、その様式性(様式美)、シュールな展開、楽屋オチ的、自己言及的、自意識過剰的な語り口、(自己防衛的な先回りとしての)カットの手数や仕掛けの多さや饒舌さ等から、久しぶりに、いかにも「あー、アニメだ」という(八十年代の押井守以降の、というべきか)アニメ的感触が強く得られる作品で、けっこう楽しんでいたのだが、でも、展開のシュールさに対してその落としどころがあまりに常識的というか紋切型だったので、えー、そこに行っちゃうのか、と、最後にはかなりがっかりした。一個一個の細部やイメージはかなり面白いし、前半はぶっ飛ばし気味だったのに、なんでそこに落ち着いてしまうのかが納得できず、釈然としない気持ちになった。
で、二本目の「まよいマイマイ」も観た。出だしはいかにも西尾維新的な(まわりくどい自己防衛的)饒舌で、つまらなくはないけどそこは別にどうでもいい。で、物語の本筋は、こういうのをやりたいのはすごく分かるし、実はぼくもやりたいという気持ちがあるのでちょっと興味深かった(でも、それはこういう形でじゃないんだよなあ、という感じなのだが)。オチも、最初の話よりは納得できるけど、やはり弱いと思う。女性キャラAには見えてないけど、女性キャラB には見えていたという含みは面白いけど、そもそも主人公に起因する「見えている理由」が、そんなの弱すぎるよ、というものだと思う。最初の話も二つ目の話も、(物語の次元で)全体の重みを支える大切なところが弱いというか、手を抜いている感じ。そこをもっとちゃんとすればかなり面白くなりそうな感じなのに。
あと、体重がなくて、体じゅうに(武器として)文房具を仕込んでいて、とつぜん主人公の口のなかにカッターとホチキスを突っ込んでくるという、形態的にも感情のあり様も、金属的、刃物的でギザギザしているという女性キャラのイメージはすごく面白くて魅力的なのに(「カニ」から導かれたイメージだと思うけど、よりシャープでエッジが立っていて鋭く尖がっている)、二本目にはその感じがなくなってしまうのが惜しい気がした。
さらに三本目の「するがモンキー」を観たら、さすがに三本目(三つ目の話)になると、一本目と二本目の蓄積があるから世界に厚みができていて、手数の多さが密度として感じられるようになってくる。物語は『少女革命ウテナ』のシリーズの一つであってもおかしくない感じ。これはかなり面白かった。
●ここまで書いてから、検索して『化物語』についてちょっと調べて、これがすごく長い話(シリーズ)の一部分なのだということを知った。だから、物語の弱い部分は、シリーズの別のエピソードへと繰り越されて、そこで補強されるのかもしれない。もしそうだとしたら、ぼくはそういう風につづいてゆく話があまり好きではない(『化物語』がそうだと言っているのではなく、そうかもしれないという嫌な予感を感じてしまったということ、どのみち、西尾維新を「字」で読もうという気持ちは今はない)。なんというか、樹木が伸びるように内側からの力で展開し増殖する話ならよいと思うのだが、穴を埋めたり、(物語的、にしろ、構造的、にしろ)つじつまを合わせたりする感じで書き足されてゆく物語はどうかと思う。
たとえばこの話で、主人公が春休みまでは吸血鬼だったという設定がいきなりあって、それについてはまったく説明されないし、霊能者みたいなおっさんの傍らに何故か女の子がいて、「この子は?」という問いにただ「この子はいてもいないようなものだから気にしなくていいから」みたいな答えで済まされてしまう。いきなり「彼女にはおよそ体重というものが存在しなかった」とか。ぼくは、そういう唐突さが面白いと思うし、そこには、なぜか分からないけどそうなのだというリアリティ(強さ)があると思うのだけど、それもきっと、別のシリーズで説明されちゃうのかなあと思うと、ちょっと冷めてしまう。説明が悪いというのではなく、ちゃんと説明されているということと、リアリティ=必然性があるということとはまったく別のことだ、ということ。まあ、もしそうだとしても、そんなこととは関係なく、説明など無視して、リアリティの方だけを面白がればいいのだがでも、説明は多くの場合言い訳であり、作品を濁らせる。
この感じを「説明」するのは難しいのだけど、例えば、中上健次の秋幸シリーズが『岬』『枯木灘』『地の果て至上の時』と展開してゆくのとか、小島信夫の文章がどんどん長くなってゆくのとかは、決して穴埋めや説明や補強によってではないと思うのだが、『スター・ウォーズ』シリーズとかだと、○○だったのは、実は××だったからだ、みたいな感じで説明的に(後出しジャンケン的に)エピソードが付け足されている感じがする。それって、コツさえつかめばいくらでも出来てしまうと思う。
ある細部が、それ自身として充実していたり密度があったりするのではなく、他の細部による説明という補強によって成立するということになると、その網の目をいかに密にしたとしても、作品の密度とはならないと思う。もちろん、ある細部が他の細部と響き合ったり関係の網の目をつくったりすることで作品は成立するのだが、しかし、まず、そこにあるその細部それ自体が自律して充実したものでなければ、そのネットワークをいくら密にしても(構造を複雑にしても)作品は充実したものにならないと、ぼくは思っている。これってけっこう作品をつくる時に陥りがちな罠で、関係を操作することばかりに一生懸命になってしまうと、密で複雑な構築物ではあるけど作品としては死んでいる、みたいなことになってしまう。
でもまあ、意図的に「殺して」いる、「死んでいる」からこそたまらないという趣味もあり得るとは思うけど。でもそれは、また別のリアリティ=必然性で、説明や穴埋めとは違う。