●DVDで『化物語』を最後まで観た。『化物語』の物語はもっとつづくらしいけど、『化物語』としてアニメ化されているものは最後まで観た。最後まで、物語を支える支点となる部分が弱いというか、ありきたりだったけど(結局「そこ」に流れちゃうのか、みたいな)、それを補うだけの手数の多さがあって、最後まで面白く観られた。イメージの面白さとしては、最初の「ひたぎ」の蟹に匹敵するものはその後はなかったけど、「ひたぎ」と「つばさ」という裏表のキャラクターがちゃんと機能していたし、「忍」が説明され過ぎることないまま重要な役割を担っているもの良かった(とはいえ、「ひたぎ」にしても「つばさ」にしても、キャラクター自体は面白いと思うけどその背景の設定がつまらな過ぎる、でも、「ひたぎ」の父親が出てきたのはちょっと良かった)。過去に遡るという展開も、心配したような「穴埋め(説明)」的な感じはそれほどなかった。
はじめから、DVDで何度も繰り返し観たり、一時停止して観たりすることを前提に、多くの情報が詰め込まれている。解読を誘うような暗号的な細部を埋め込むことで観客の没入を促すというのはよくある手ではあるけど、それだけでなく、手数の多さが描写の充実になってもいる。暗号的な細部と、世界の厚みを支える描写と、楽屋オチ的なおふざけという異なるレベルの情報が、めまぐるしく切り替えられながら連打され、映像的な情報と、文字的な情報と、聴覚的な情報が、時に同期し、時に補完し合い、時に別方向へと分離しつつ、連打される(これを観ていて、ゴダールモンタージュってけっこうアニメ的だよなあと思った)。アニメにはもともとそういう傾向はあるけど、それがここまで凝縮されることは稀だと思う。でもまあ、そのような多層的な運動が、最終的には、思春期の青年の自意識を慰撫する幻想に奉仕する物語という形に着地するのは、仕方ないとも言えるし、惜しいとも言える。でもまあ、普通に「いい話」ではあると思う。
あと、原作の性質上どうしても台詞のやり取りが主になるので、アニメとしての独自の運動によって展開してゆくという感じではないところが惜しい気がする。とはいえ、セリフのやり取りが主になるからこそ、それをもたせるためにここまで過剰なカット数が要請されたとも言えるし、うざいと思えるくらいの冗長な台詞のやり取りこそがアニメに親和的だとも言える。でも、例えば『フリクリ』だと、うざくて冗長な台詞のやり取りがアニメ独自の運動性のなかで展開されていると思う。
途中で、実写版オープニングというのがあるので、このアニメの背景となる「場所(風景)」の多くは実在する場所がもとになっていることが推測されるけど、それが作中で具体的に「何処」とは指定されていないところが良いと思った。たとえば『デュラララ』とかだと、舞台が池袋と特定されるのだが、それによって逆に「池袋」という場所(その風景)が特別な場所として虚構化する感じがあるのだが(それが悪いというのではない)、この作品では場所が特定されずにどこでもないどこかとして抽象的なままであることによって、逆に、一つ一つの風景(場所)の具体的な手触りが際立っているように思う。それがこの作品の世界の説得力となっているように思う。