●人は基本的に、人のためになること、人に感謝されるようなことをすることに歓びを感じる。あるいはそれを、しなければならない責務と感じる。別に大それたことでなくても、たとえば電車でお年寄りが前に立てば席を譲るとか、そういう行為のことだ。当然それはとても重要なことだ。というか人間の感情の根源的なところにあることだろう。だがそれは逆に言えば、差し迫っては誰のためもならないこと、誰にも感謝されないことをつづけるのはとても困難だということでもある。たとえば芸術作品をつくりつづけること。
それは誰にも感謝されないし、誰をも喜ばせないどころか、しばしば人から不審がられ、胡散臭がられ、軽蔑され、邪魔だとさえ思われる。そんなことに何の意味があるのか。でもそれは、疲れた人にイスを与え、飢えた人に食べ物を与えるのとは別の次元で人のためにすることなのだということを、それをつくろうとしている人は信じているはずだ。芸術作品をつくろうとする人は誰でも、過去の作品から与えられたもののかけがえなさを知っているはずだし、なにより自分自身がその力のおかげで生きることが出来ている(それがなければ生きていけない)ということを知っているはずだ。
芸術はかならず「そこ(現場)」へ遅れて到着する。五十年遅れるかもしれないし、百年遅れるかもしれない。「それ(出来事)」に対する安易な意味づけや解決を拒否したままで保持しつづけるという、そのような遅れのなかでしか実現しないもの、作り上げることの出来ないもの、精査し熟成し得ないものがある。そして、それを試み、出来うることならばそれを次の人へと受け渡そうとすることが芸術なのだ。その遅れによって生まれたものこそが、次の人にとっての新しい何かを先導するかもしれない。芸術の「新しさ」はアクチュアリティーとは全然別の何かだ。
それを受け取る次の人がいてくれるのか、その結果が誰かに受け渡すに足りるものとなり得るのかは事前には保障されず、その成否は五十年とか百年という時間の内実にかかっている。百年の努力は無駄になるかもしれない。でもそこに賭けるだけの価値はある。それは過去の偉大な作品が証明している。
今、自分に出来ることがないことを恥じることはないはずなのだ。今、出来ることがある人、それを実際にやっている人にはもちろん最大限の敬意を払いつつ、堂々と(役に立たない)別のことを勝手にしつづければよいのだ。いま、ここ、だけがすべてではない。重要なのは「それ」を保持しつづけることであって、最悪なのは、目の前にあるもの(言葉)に簡単に飛びついてしまうこと、それによって何かを説明し、解決した気になってしまうことだと思う。「それ」について簡単に、性急に、なにかをすること、言葉にすることは慎みたい。
●一昨日読んでいたのは『わたしの彼氏』(青山七恵)で、で、これってとても『化物語』と近い感じがした(『化物語』はアニメのことで原作は読んでない)。男性主人公の「人を惹きつける空虚(あるいは受動性)」であるようなあり様とか、女性を惹きつける男性主人公と彼に惹かれる女性たち(怪異や呪いを背負った女性たち)との関係の仕方とか、男性主人公と女きょうだいとの関係(『化物語』の暦には妹が二人いて、『わたしの彼氏』の鮎太朗には姉が三人いる)とか。『化物語』の基本的な構図が、怪異をもった女性たちを惹きつけてしまう主人公が、否応なくその女性たちの怪異に巻き込まれ、それに付き合わざるを得なくなってしまうというものだったとしたら、『わたしの彼氏』もほぼ同様の構図をもつと言えるんじゃないだろうか。『化物語』の忍野メメの位置には、『わたしの彼氏』では鮎太朗の二番目の姉のゆり子がいて、羽川翼の位置には、テンテンがいる。
ただ、主人公と女きょうだいの関係の微妙なニュアンスとか、女性たちの背負う「怪異(呪い)」の説得力や凄味という点では『わたしの彼氏』の方がずっと面白くて、そのあたりで『化物語』はどうしてもありきたりなところで済ましてしまっている感じがする。だが一方、『化物語』には、戦場ヶ原ひたぎの文房具のイメージとか、(特に副音声で炸裂する)神原するがの強烈なキャラクターとか、アニメでしかあり得ない面白いイメージや手数の多さがあって、その弱さを補って余りある感じではあるのだが。
つまり、構図は似ていても、作品としてどこに着地させるのか、というか、作品が何に支えられるかという支点が、全然違っているということか。