●ずっと蒸し暑かったのだが、午後十時くらいに、開け放していた窓からたったいまスイッチを入れてクーラーから出てきたかのような風がすーっと入ってきた。
●昨日は、硨島伸彦さんがつくった『きこえる?』という絵本がスロバキアで行われた国際コンクールで準グランプリに相当する賞(金のりんご賞)を受賞したお祝いの小さな集まりがあって、久しぶりにビールをたくさん飲んだ。ビールはアルコール度数が低いのでどんどん飲んでしまって、あまり酔うこともなく水分はすぐにトイレで出てしまうのだけど、だからといって飲み過ぎるとビールのエッセンス的な何か軽い粘性のあるものが少しずつ体にたまってだんだん濃くなってゆく感じで、気がつくと強い酒を飲み過ぎて酔った時とはまた違った独特の重さが体に残っているということになる。終電に近い電車で家に戻ってからその重さを薄めようと冷蔵庫にあった麦茶をコップで二杯一気にごくごく飲んでから、あっと気づき、さらに重ねて麦成分を取り込んでしまうことになった、と思うのだった。
●まだ三分の一弱くらいしか読めていないけど、文藝賞の「世界泥棒」(桜井晴也)が面白い。
≪真山くんがわたしの手をにぎりしめた。つめたい手だった。それでも、その手から生えた指のひとつひとつがかたく錆びついたわたしの手をまさぐり、そのひとつひとつをゆっくりとほどいていった。わたしの視界のいちばん遠い場所にわたしの指たちと真山くんの指たちがほとんど記憶のようにうつりこんだ。わたしの指は知らないあいだにひどく傷つき、そのすべての指から骨がつきでていた。骨は月の横顔のように白く、赤色や桃色の肉や繊維をそのまわりにまとわりつかせていた。指の肉は指の腹の皮いちまいでようやくつながって、だらんとしたにたれていた。真山くんは繊細な手つきで指の肉をもちあげ、ひとつずつていねいにその空洞に骨をさしこんでいった。脳味噌を針でさしたみたいにほそい痛みがわたしの歯の裏側で響いたけれど、わたしは我慢して、ひとつの声もあげなかった。わたしのつめはすべて腐ってぬけおちていてかなしかった。あの子供がかなしいのはきっと、と真山くんが言うのが聞こえた。だれの子供でもないからだよ。わたしの風景のいちばん外側にあった真山くんとわたしの指がぐっとわたしに近づいてきて、それと同時に、車内もすこしずつ明るくなってきていた。わたしと真山くんのあいだを覆っていたのも黒煙なんかではなくて、ほんとうはただの暗闇だったことに気づいた。車内にいた黒い服のひとびとはみんなふところからろうそくをとりだして、マッチをこすって火をつけていた。溶けだした蜂蜜のような淡い光が染みだすように車内にひろがっていって、わたしの身体とこころはもう羽虫のかたまりではなかったし、わたしの外部はただの記憶ではなかった。≫