2019-02-06

●別の用事で図書館に行って、棚にさしてあった『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)(大江健三郎)がたまたま目について、なんとなく手に取って最初のところを読んだら面白くて、読みふけってしまい、そのまま借りてきて、帰ってからもつづきを読んだ。半分くらいまで読んだ。

●これまでの大江小説に比べると文章が淡彩的であるのだが、それでもなお独自の読みづらさは変わらない。意味がとりにくいということと、書かれていることが憶えにくい。記述が複雑なので、何が書かれているのか理解しようとする頭の使い方は、いったんそれを理解したところで一定の満足を得て、そこで捉えられた内容を保持し続けようとするところまで手が回らない。まったく忘れてしまうということはないが、しばらく読み進んで、以前あった場面と関係のある記述に行き当たると、確か前にはこんなことが書いてあったはずだから、この部分とはこういう関係があるのだなと、いちいち頭の中で改めて確認する必要があり、そこでその都度呼び出される記憶も、たしかこんなような意味のことが書いてあったはずだけど…、と、どこか掴みがたく自信が持てない感じで思い出す。

大江小説においては、物事や出来事が記述される時、描かれるその順番や段取りや繋がり、そして視点の取り方がかなり特異なので、それが、すんなりした理解(読解)と結びつかず、そのような特異な理路(経路)を経て取得され、そのような「見慣れない形」として納得された内容は、そのままではすんなりとは(自分なりの)記憶の形に結びつかないから、すんなりと定着しない。だから、読み取ること(今、読んでいる部分に書かれていることを理解しようとすること)と、思い出すこと(今、読んでいる部分が、それまで書かれていたこととの関係や対比から、どのような意味をもち、展開を示すのか、を探るために記憶を呼び出すこと)という、二重の過程で、ぼく自身の通常の物事の理解の仕方や記憶の仕方---や取り出し方---に対して変形が強いられ、強い負荷がかかり摩擦が生じる。

そして、その過程こそが、淡く書かれたようにもみえるこの文体から密度が生じる理由だろうと思う。この感じから、「まさに大江健三郎の小説を読んでいる」という感触、「大江健三郎を読むことでしか得られない特異な感覚」が生じる。