●「新潮」の新人賞を受賞した「いかれころ」(三国美千子)、とてもよかった。ああ、小説を読んでいるなあ、という感じ。
オーソドックスというのか、クラシカルというのか、目新しさや新奇性はないと思うのだが、非常にクオリティが高く、強く引き込まれ、良い小説を堪能したという読後感で、読了後にすぐ、もう一度繰り返して読んでしまった。
昭和57年(1982年)、バブル前夜ともいえる時期の、大阪府羽曳野市の、おそらく郊外で、戦前からつづく日本の「家」に関する因習が、崩壊する直前でぎりぎりに保たれていた時期のある一族(主に女たち)の姿を、当時四歳だった女の子の視点から描いている。「家」といっても、特別な名家というのではなく、田舎の地主(農家)というありふれた「家」だ。四歳の女の子の「私」という視点で書かれるのだが、すでに大人になった話者が回想している感じでもあり、限りなく三人称に近い一人称といえる。
この視点の取り方が絶妙で、冷静で客観的でありながら、子供の視点という感覚の特性も強く生かされており、事後からの視点であるという突き放した感じと、描かれている事柄が、今ここで立ち上がっているという生き生きした感覚とが、構図・逆構図のようになってモンタージュされ、ほどよいバランスをとっているように思う。子供の視線はときにかなり辛辣(特に母親に対して)なのだが、辛辣さによってノスタルジーに陥ることが回避されつつも、辛辣さが嫌味にならない程度に抑えられてもいる。
子供の視点からみられた一族の姿を描くことのなかに、社会的背景(バブルへと突入していき、古い因習が---良くも悪くも---崩れつつある結節点のような時代)や、その時代に特有の(親族関係のなかに現れる)権力関係や差別、ジェンダーバイアスなどありようが巧みに織り込まれて表現され、同時に、人々がそのような時代背景によって強く制約されていながらも、一人一人の人物として個別に生きていることが的確にとらえられていると思う(キャラが立っている)。基本的に標準語による語りのなかに、効果的に(セリフとして)方言が混ざってくる文体も魅力的だった。
「新しさ」のような感覚は感じられないのだけど、逆に、こういう小説が「今」書かれ得るのかという驚きがある(今、こういう小説を書ける現役作家はいないのではないか)。そして、小説とはまさに、こういうことを書くための「器」としてあるのではないかという感じを受けた。