●『O介』。大鋸一正の『緑ノ鳥』以来十四年ぶりの小説集。まだざっと一回読んだだけだけど、とても面白かった。97年に発表されたものから最新の書き下ろしまで七編が、「オー」というか「輪」というか「穴」という主題によってゆるく繋がっている。特に最初の二篇(「O介」「関係―未来」)が素晴らしいんじゃないかと思った。
小さいのに大きいというか、小さいのか大きいのかよく分からないというか、つまり、スケールというものを無効にするような作品空間(イメージの配置や展開)という感じ。それはおそらく、「具体的なもの」と「抽象的なもの」とが直結しているような感じであるところや、「論理的な展開」と「感覚的な連結」との間の「連結」の仕方、「空間的な配置」と「非空間的な配置」との間の「行き来」の仕方などが、とても自由であるところからきているのではないだろうかと思った。
(この本を読んでいると、逆に、自分が囚われている思考の形というか、感覚の狭さや不自由さのようなものが、強く意識される。作品として、小説としてどうこうという前に、何かこう、動かされるというか、刺激される。すばらしい完成形をみせられたというより、何かを促されるというか、掻き立てられるものを示された感じ。)
例えば、「O介」は、語りの位置の不確定(不可解)さによって小説の持続が支えられるようなとても技巧的な作品だと思うのだけど、この語りの宙づり感を実現しているバランスと、「関係―未来」で、限りなく作者=話者に近い感じのエッセイ風のはじまりから、一転して虚構性の強い登場人物の「わたし」が出現する、転換=連結の軽やかさは、どちらも「小説としての技巧」から導かれたものではなくて、思考の展開に関する囚われの無い自由さ(自由であるからこその、探求すべきか細い線を踏み外さない的確さ)によって生まれたものなのではないかという感じが強くする。
小さいのに大きい、というスケールが無効にされる感じとは、小さいもののなかに大きいものを見立てるという盆栽みたいなこととは違って、空間の底が抜けているという感じ(それは「穴」という主題とも関係があるとは思うけど、そこにテマティックにこだわるのは違うと言う感じもする)。
例えば、絵画が二次元であることの意味は「平面性」にあるのではなく、その超-三次元性(三次元空間では成立しない空間をつくることができる)にあるとぼくは思っている。つまり絵画の二次元は、三次元に対して次元が足りないことによって、より高次元でもあり得る。スケールが消失して、小さいことと大きいことが同時に(同じように)あるというのも、こういう感じに近いのではないか。
「関係―未来」において、人間と猫との非対称性(例えば、人間は猫より長生きなので猫の一生の時間を俯瞰できるが、猫には人が生まれてから死ぬまでの時間を把握できない)は、人間の優位性やメタ視線を惹起するというより、逆に、そのような優位性そのものの相対化をもたらし、潜在的にはその逆転の気配さえ生じさせる(それは、タイムスケール逆転でもあり、長いは短い、短いは長い、という感覚にもなる、そこには勿論、冒頭の河口龍夫の作品についての部分との関係が効いてもいる)。階層的に上位であることがそのまま同時に下位であるような、非位置的な位置は、「O介」の語り手の位置の不可解さや、あるいは技巧的にそれをさらに極端にしたような「ドーナツ」の(乱反射的な)「視点」の位置の消失などとも繋がり、空間的な観点からは、非大きさ的な大きさ(四次元ポケットのような「大きさ」)に繋がるのではないだろうか。
スケールの「底が抜けている」というのはきっと重要なことで、日常的な光景のなかに違和感や不条理を上手いこと混ぜ込むみたいな小説はいくらでもあって、でもそういうのはたんに技巧の問題であって、ここにあるのはもっと根底的な自由の(あるいは、不確かさの)構築だと思う。不可解さが「謎」として構成されないということも重要だと思う。「問い」ではなく、感覚であり動きであり行為であり、それらの構成であり配置であり、その配置の「底が抜ける」という出来事でもある、というような。
(この本を読みながら、我が身を振り返って思ったのは、重要なのは、そして困難なのは、「掟の門」の門番を無視して勝手に門をくぐってしまうということなのだなあ、ということだ。しかしそれは、年齢を重ねるごとにさらに難しくなってきているように思う。いや、でも、「それはとても困難だ」と考えることが既に門番の仕掛けた罠にハマることで、「困難だ」とか言ってる暇があったら、たんに通り抜けてしまえばいいだけなのだろう。重要なのは、そこを通り抜けるのか、抜けないのか、であって、それが困難だとか容易だとかいうことではないのだろう。)