●44歳になった。今日、朝起きて最初に喋ったのは、市役所から「税金払え」って言いに来たおばちゃんだった。ドアの新聞入れから部屋のなかを覗いてる奴がいたので、「どなたですか」と強めの調子で声をかけたら、「市役所の納税課から委託されている者ですが」と返ってきたので、あちゃーっと思った。
●『STAR DRIVER 輝きのタクト』の一話から九話までをDVDで観た。おそらく榎戸洋司の一番新しい仕事だと思ったので観てみた。榎戸節全開というか、ほとんどセルフパロディに近い感じ。自分自身の内側に自分自身を織り込むことで複雑に屈折している、というか。セルフパロディという感触になるのは、『ウテナ』や『フリクリ』『トップ2』などではシリアスなものとしてあった「主題」が、ここではほぼリアリティを失って、ほとんどネタとしてしか機能していないからということもあると思う(九十代後半からゼロ年代初めころのアニメを支えていた「主題」のシリアスさは、今日でもまだ有効性を失ってはいないとは思うけど、それをそのまま「反復」しても意味が違ってしまう)。じゃあ、つまらないのかと言えば、決してつまらなくはない。
榎戸洋司の世界は基本的に拡張的なもので、要するに青少年の心理的、対人関係的な葛藤でしかないものを、全世界、全宇宙的な規模での葛藤や抗争へと拡張する。それは例えば「ハルヒ」の世界が、学校のごく親しい仲良しクラブの日常のなかに、全世界、全宇宙を詰め込んでしまおうというのと、ちょうど逆向きのベクトルをもっている。県立高校とその周辺、三年前から現在までの時間、SOS団の五人とその親しい友人という、ごく限られた範囲のなかに、宇宙人、未来人、超能力者を配置し、何度も過去へ回帰したり、無数の平行世界や可能世界を分岐させるという形で、小さな世界(フレーム)をどんどん細かく分割して無限の広がりとする。榎戸的世界はそれとは逆に、設定をどんどん外へと拡張させ、世界設定そのものを巨大化させることで作品を展開し複雑にさせてゆく(だから長い話になりがち)。だが、『STAR DRIVER』では、世界を拡張させ複雑化させるそもそもの動因となる「主題」そのものがリアリティを失っていて、物語はネタ化している。だけどここでは、物語がネタ化して、自分自身で自分を支えるのが困難であるということこそが、物語を複雑化(屈折)させていて、それに伴って世界設定も複雑になってゆく、ということが起こっているように思われる。自分自身のなかに自分が織り込まれているという感じは、おそらくこういうことからくるのだと思う。そして、おそらくそれは一種の成熟なんじゃないかと思う。繰り返しアドレッセンス期の葛藤を描きつづけてきたし、描きつづけるしかない日本のアニメの(というか、榎戸洋司の)、成熟化の一つの形がこれなのではないか、と。だからこの作品は、例えば「エヴァ」のように激しい没入や愛着(固着)を促すという種類の作品でも、「ウテナ」のような主題(問題)としてのシリアスさを抱えた作品でもなく、冷静に「読む」ことを促す。
現在の日本のアニメは、ほとんど歌舞伎みたいなものとなっている感じで、いくつもの前提となる「お約束」を受け入れたうえで(「銀河美少年」みたいなセンスを笑ってスルー出来ないと受け入れるのが難しい)、それらをどのように新たな解釈や配置によってみせるのか、という感じのゲームになりつつあるように思う。でも、やはりそれだけでは面白くない。この作品が、そのようなゲームに回収されず、たんなる自己模倣とか安易なポストモダンみたいにもならないのは、そこに一定の(榎戸的な、というしかない固有の作家的な感触をもつ)密度があるからだと思う。とはいえ、榎戸的密度は榎戸的主題とやはり不可分で、主題は自己模倣のように反復されるのだが、その反復する行為のなかで徐々に別物へと変身-変質してゆくのだと思う。
ただ、(主題に導かれる)物語そのものにリアリティ(というか、それ自体としての強さ)がなくなっているから、ここでは提示される「世界設定」(の複雑さや屈折)そのものが作品である、という感じになっていて、だから、ある程度お話が進行して、世界設定や人物の関係(の配置)の複雑さが把握できるようになってはじめて面白くなってくる。最初の方を観ている時は、「これってあまりに「ウテナ」っぽ過ぎる…」という感じで、立ち上がりはあまり冴えない印象だった。
あと、ロボットのデザインがいまひとつ冴えてない、というか、微妙過ぎる気がする。
つづきも観るつもり。