●アニメ版『ハーモニー』をDVDで観た。アニメとしてはあまりいい出来ではないと思った。特に最初の三十分の、思わせぶりな回想シーンばかりの展開は退屈だし、なによりミァハが、ちっちゃい人間関係のなかで他人の心を支配しようとする衒学的なちっちゃいカリスマにしか見えなかった(まあ、実際そうなのだけど)。それに、キアンが自殺する直前のぐるぐる回るカメラワークは、3DCGでやっちゃいけない安易な演出ワースト10に入るのではないか。作画的にも、キャラの日常的な細かい動きのぎこちなさが、違和感をおぼえる程強くあった(セルルックのせいなのか?)。デザインの好みは人それぞれだろうけど、ぼくはあまりかっこいいとは思えなかった。
とはいえ、話自体はシンプルなので、あー、そうそう、『ハーモニー』ってこんな話だったなあと思い出しながら、それなりに面白く観た(アニメ版『屍者の帝国』は、あれっ、これってこんな話だっけ、という感じで、何がやりたいのか分からない感じになっていた)。原作では、細部のこだわりや薀蓄のような部分に、思弁的な文明論や社会批判、屈折や毒気が含まれていて(原作はけっこうフーコーに依拠しているようにみえる)、原作が好きな人はそういうところを面白がるのだろうけど、アニメではそういう部分がすっかり抜けている。だから、ミァハがたんに中二病の困った人にしかみえなくなるし、未来社会のあり様からも薄っぺらな文明批判しか読み取れなくなる。ぼくは伊藤計劃に特に思い入れはないけど、原作に思い入れのある人ならいろいろ文句はあるだろう。でもまあ、ざっくりと言えばこんな話だよね、というところはそんなに外れていないのではないか。
●そもそも、脳の内部の調和が完全にとれていて、何の葛藤もない状態が「最も合理的」という理屈は成り立つものだろうか、と考えたりした。意識の有無はともかく、葛藤がある方が合理的なのではないか、と。
●この物語の感情的な主軸はどこにあるのだろうと探りながら観た。それで思ったのは、この物語の重要な主題は、人類が意識を消失するということよりもむしろ、「意識を持ってしまう(意識が生まれてしまう)」ということの不可解さや理不尽さや恐怖にあるのではないかと感じた。まだ物心のつかない子供がある時、「あれっ、オレって、オレだよな」と気づく瞬間の不思議さを、一つの根源的な恐怖としてとらえて造形されたのが、ミァハという人物なのではないか。
知らぬ間に意識をいうものを持ってしまうということは、自分がいつかは死んでしまうというのと同じくらいの恐怖であり、理不尽でもあって、しかし、ふと気づいた時に既に意識はあるので、その時点で手遅れであり、それを避けることが出来ない。ミァハが実行しようとしたのは、「死なない」で「意識を消す」ということで、それはまさに「意識を持ってしまう」ことの恐怖を消すことになる。意識の恐怖と死の恐怖を両方同時に排除できる。
この物語に多くの人が惹かれる核(リアリティ)は、むしろそっちなのではないか。