●今季初の「ああ、冬だ」という寒さ。寒さの質がかわった感じ。
●今日しか出られる日がなく、いくつか展覧会を観てまわった。それも、移動中の電車のなかでは別の用事をしている感じで。今はバタバタしていて、ちゃんと作品と向き合った感じで感想を書く心の余裕がない。
それでも、六本木の国立新美術館でやってるDOMANI・明日展(文化庁の在外研修者の展覧会)の浅見貴子の作品はやはりすごく良かった。今日は関係者のみの内覧会で、作家も来ていて、浅見さんとも少し話した。浅見さんの作品は和紙に墨で裏から描かれていて、つまり我々が作品として見るのは、和紙の裏側から墨がしみ出てきた状態で、だから描いている時は裏の(作品の表の)状態は見えていなくて、しかも(当然だけど)描いている時は紙はパネルにピンと張られた状態ではなく、墨を含んだ和紙には多数のシワが出来たくしくしゃっとした感じで、墨の発色さえも、完成後にメディウムを塗布するまで分からないそうだ。でもそれはすごく納得出来る話で、やはり、描いている時に(結果としての)画面が見えていないというのは重要なことなのでないかと、改めて思った。それは、描くことを見ることの支配下に置かないというだけでなく、なんというのか、完成の状態が遠くにあって、その遠くに向かう指向性と、遠隔操作するような手探り感が常にあることで、制作するという行為を手垢にまみれたものにしてしまうことから遠ざけるということがあるように思う。:芸術において技術というのは実は、「手慣れ」ないためにこそ、ある主の「敬虔さ」を失わないためにこそ、つまりスレてしまわないためにこそ、必要とされるものなのではないだろうか。
浅見さんの作品は浅見さんのホームページで観られる(http://www.takakoazami.com/index.html)けど、画像はやはり画像でしかなくて、墨の黒のガツンとくる感触と、しかしそれが和紙の裏から滲み出てきたものであることのやわらかさも同時にあるという感じは、画像ではほとんどわからない。「樹」が好きな人には特に、実物を観ることをお勧めしたい。
●部屋に戻るって着替えようとしはじめたところに、本の見本が届いた。一度ダメになりかけたけど、とにかく、物質としての本はかたちになった。とりあえずはよかった。
本の「はじめに」にも書いたけど、作品に対する(つくるにしても、受容するにしても)畏怖と尊敬とが成り立っていなければ、作品というものがそもそも成り立たない。そして、作品への畏怖と尊敬とは、つまりは、世界と他者への畏怖と尊敬なのだろうと思う。実際には、畏怖と尊敬は、イリュージョンや幻想を媒介とすることでしか成り立たないだろう(個々の作品とは、そのイリュージョンや幻影の無数のバリエーションだ)。しかしそこで重要なのは、イリュージョンや幻想そのものではなくて、それが可能にする畏怖と尊敬という感情であり、世界への敬虔さという態度(あり様)の方だと思う。