●編集者と会って、直したゲラを渡した帰り、ホームで電車を待っていた。電車が入ってきて、停まり、目の前のドアが開く。するとそこから、森永卓郎が降りてきた。テレビで観る、(おそらく首に肉がつきすぎているために)顎を軽く上げ、軽く半笑いな表情の、あのまんまの感じで。
●その直前に編集者に、大江健三郎はイベントなどがある時、車を出しますと言っても、いいですと言って、電車に乗って来て、電車で帰るという話を聞いていた。でも、携帯電話をもたないので、遅れたりすると待っている方はひやひやするという。集中して本を読んでいて、全然違うところに行ってしまうことがあるらしい。へー、大江さんが普通に小田急線とか乗ってるんですね、と当たり前のことに感心した。当たり前のことだけど、なかなかイメージしづらい。電車のなかで有名人を見かけることありますか。いや、ないです、たぶん八王子近辺にはあまりいないんじゃないですか。しかし森永卓郎がいた。
●前にも似たようなことを書いた気がするけど、最近すごく気になるのは、ある概念なり、その概念を的確に示す言葉なりが示されて、それによって、混沌としていたものに見通しがたったように見えたり、世界の見え方がまったく違ったりする時、しかし、その見通しの良さによって強いられるフレーム(構図)が、かえって人を縛ってしまうということだ。確か、八十年代はじめ頃の糸井重里が(栗本慎一郎との対談でだったと思うけど)、たとえば柄谷行人を読むと、「転倒」だとか「風景」だとかいう言葉が今までとはまったく違ってみえて、そのこと自体はすごく魅惑的だけど、でも、それによってかえってその言葉が使いづらくなって、どんどん不自由になってゆく気がするというようなことを言っていたと記憶している。その「風景」って、柄谷を踏まえた「風景」なの、それともそうじゃない方の「風景」なの、みたいに、どんどん事前に共有される(確認される)べき前提が積み重なっていってしまって、ひらけたはずの見通しによって、かえって風通しが悪くなってしまう、というようなことだったと思う。
ここで問題なのは、事前の前提の積み重ねが悪いというのではなくて、それが「共有されるべき」であると強制されることにあると思う。そのような強制の力が人々の間で作用してしまうことが、ものごとをどんどん鬱陶しいものにする(つまり、状況に対して自分が何らかの影響力をもち得ると思うことそのものが、場の鬱陶しさを招くのではないだろうか)。何かを考えること、あるいは生きることは、果てしなく「事前の前提」が積み重なってゆくということであり、それ自体は必要だし不可避なことだ。だから、それぞれの決して共有されない「事前の前提」を、それぞれが孤独に積み重ね、掘り下げて行けばよいのだし、それしかないと思う。それじゃあ他人と何も通じるものがないじゃないかということになるが、多分、そんなことはない。Aという分野の専門家とBという分野の専門家とで、事前に共有されている知的背景が何もないとしても、二人の間に何かが通り抜けることがある。優秀な運動選手と優秀な職人との間に、それぞれがもつ技術体系にまったく共有される部分がないとしても、その二つの体系の間に何かが通り抜けることがある。逆に言えば、希望はそこにしかない気がする。
例えばアカデミズムというのはおそらく、そのような事前の前提を、ある閉ざされた集団によって果てしなく精緻に組み上げてゆくことなのではないか。それ自体、きわめて貴重な、尊重されるべき行いだ。しかしそれは必然的に、その外部との交通を困難にする。でも、おそらくそれでいいのだ。選ばれた優秀な専門家が一生かかって研究することが、簡単に素人に理解できるはずがない。問題なのはそれを、「分かるように説明(要約)しろ」とか、逆に「お前らこの程度のことは常識として分かっておけよ」とかいって共有が強制されることなのではないだろうか。そういう考え方のことをマッチョと言うと思う。
●「新しいもの」をつくりだすのは、人ではなくて時間そのものだ。何かを更新すること、アップデートすることは、時間そのものの仕事であって、人の仕事ではない。人がすることは、それぞれの「事前の前提」を深く掘り下げることであって、それを先に進めることではないと思う。そして、それぞれのそのような行いが、時間がつくりだす「新しさ」と、出会うのか出会いそこねるのかは、偶然とか運命とか言うしかないものの範疇にある。でもそれはきっと、たいした問題ではないと思う。