●知っていることと知らないことについての四つのあり様。(1)わたしはそれを知っているし、自分がそれを知っているということも知っている。(2)わたしはそれを知っているが、自分がそれを知っているということを知らない。(3)わたしはそれを知らないが、自分がそれを知らないことは知っている。(4)わたしはそれを知らないし、自分がそれを知らないということも知らない。
(1)と(3)は、意識的な知/不知であり、(2)は無意識的あるいは身体的な(この二つは作動する次元が異なる)暗黙的知であり、(4)は死角あるいはブランクとしての不知である。言うまでもなく、重要なのは(1)と(3)ではなく(2)と(4)である。世界を(1)と(3)だけで埋め尽くすことは出来ない。そんな日は決して訪れないとは思うが、可能性としてだけならば、(2)が(1)に吸収されることはあり得るかもしれない(隠されたものやニュアンスや影の一切ない完璧な真昼の意識の世界)。しかし、(4)が(1)や(3)に吸収されることはありえない。(4)は、そこに属していたものが(1)や(3)の領域をかすめた時にはじめて、事後的に、これは今まで(4)の領域にあったのだ、そして(4)という領域はある(少なくともあった)のだという形で、その存在が知られるのみだからである(想像可能なもの、想像力によってカヴァーできるものは既に(2)や(3)の領域にある)。おそらく、(4)の領域にあるものが(1)や(3)の領域をかすめることが出来事であり、(2)の領域をかすめるときに、潜在的な出来事としてのフィクションの萌芽となる。
世界そのものが、限定のない、無限に開かれた集合であるならば、(1)と(3)の領域をいくら拡大していったとしても(そして(2)を(1)によって梱包出来たとしても)、その残り(それ以外)の部分としての(4)が消えることはない。そこは神や他者の座として残され、残念ながら、神は死ぬことを許されない。
それを知らないということさえ知ることの出来ない広大な領域(ブランク)が世界にはあること。わざわざ口にするまでもないあまりに当然のことだが、われわれはそのような世界のなかにいる。その時に必要とされるのは、情報へのリテラシーとか、正しい知識とか、合理的な判断力とか、そういうものとは根本的に異なる何かだとぼくは思う(それらが必要ないとか意味がないとか言っているのではなくて、それはもちろん必要だがそれだけでは足りないと言っている)。
●それにしても昨日観た松江泰治の作品はすごかった。特にモニターによる映像(というより「静止画」に対する「動画」と言うべきか)の作品。死後からの視線のようにクールかつ過剰にクリアーで、同時に、前世の記憶のようにはるか遠くにかすんでいる。
ぼくはそこからソクーロフの『精神の声』に近いような感触を得るのだが、しかしソクーロフが六時間近くもかけてようやく実現したような何かを、たった一つのフレームで、簡潔に端的に明確に身もふたもなく示してしまっていて、その簡潔であることの強さと完結性(「そこ」への届かなさ)によって「わたし」が世界から突き放されて消えてしまうかのようだった。
(これは動画作品を単体として観た場合の感想で、展示全体としての感触はまたちょっと違っていて、それもまた面白いのだが。)
あと、鬼頭健吾の作品がとてもうつくしかった。ぼくはこのような傾向の作品が好きではないし、美術がこのような方向に行くことは適当ではないとさえ思っているのだが、そうだとしても、うつくしいものはうつくしい。