●ちょっと、昨日の補足。『ロボティクス・ノーツ』と並行世界。
ジオタグと言うとふつうは、撮った写真に位置情報が埋め込まれていて、例えば自宅で撮った写真をそのままツイッターなどでアップしてしまうと家の住所がバレてしまう、みたいな感じで説明されるけど、『ロボティクス・ノーツ』では逆に、ある「位置」そのもの方になにかしらの「しるし」が埋め込まれていて、モバイルがその位置にある時に反応するという形になっている。それはその場所に物理的なしるしがつけてあるのではなくて、ある特定のアプリケーションによって共有された地図の上にしるしを残し、その地図上の位置と、モバイルの発する現実の地球上の位置情報との照合によってそのしるしが作用する。それによって、現実の上には物理的な変化をまったく及ぼすことなく、「その場所」にタグをつけることができる。地図上にしるしをつけるのと基本は変わらないとしても、その地図は実物大であることによって、地図上の移動と実際の移動がぴったりと重なる。これは現実でもカーナビなどによって実用化されている。
カーナビによって示される地図=風景は、本来は実際に目の前にある風景とは何の関係もない。しかし、地球の表面全体を漏れなくカヴァーする座標があり、その座標が地球上のすべての場所と過不足なく一対一で対応しているとすれば、それは地球上のどの位置も座標上の一つの位置へと変換して表現することができるということだ(カーナビの地図は地球全体をカヴァーしてはいないだろうけど、たんに座標上の一点としての位置情報であるならば、地球のどの場所でも同等に対応しているはず)。だから、座標の変化が現実上の行動の指標となり得るし、座標上のタグが現実のタグとなり得る。
そしてこの相互対応が、地図のように固定されたものではなく、無数のモバイルによって二つの世界がリンクし、リアルタイムで対応し合って相変化しているとしたら、それはつまりその二つの世界は並行世界であると言ってよいのではないだろうか(いや、二つの系はそれぞれ時間の流が違うかもしれないので、「リアルタイム」という概念は成り立たず、たんに何かしらの対応関係が常にある、と言うべきかも)。その時、一方が現実で他方が仮想だとか、一方がオリジナルで他方がそのモデルであるということは言えなくなる。互いに影響を与え合う対等な(ぴったりと重なり合いつつも分離した)二つの系(世界)ということになるのではないか(物理的な世界と座標上の世界とでは密度が同等ではないとしても)。
これがつまり『ロボティクス・ノーツ』におけるフィクション内現実とアプリ「居ル夫。」内の座標世界との関係なのだが、そのように考えることが出来るとするならば、我々のいるこの現実と、その現実の内部で成立する(かのようにみえる)様々なフィクションとの間にも、同様の関係があると考えることもできるのではないか。フィクションとは仮想現実なのではなく並行世界であり、様々なフィクションを立ち上げ、それを成立させるメディウムはいわば、『ロボティクス・ノーツ』で言えばポケコンのウインドウのような、並行世界間の接触点というか交錯点なのだと言えないだろうか。この世界と並行世界とはまじりあうことはないが、対応し合ういくつかの接触点をもち、互いに自律したまま相互作用によって相変化する、と。
例えば、ぼくは新宮に行ったことがないのだが、もし新宮に行ったとしたら(聖地巡礼)、『枯木灘』という小説から受け取るものが変化するかもしれない。それを、『枯木灘』という小説をより深く理解できるようになったと考えるのではなく、『枯木灘』というひとつの系と、物理的な新宮という場所というまた別の系が相変化し、その変化の一端が「ぼくの感覚」という一つの結節点として現れたのだ、と考えることもできる(もちろんこれは、種子島と『ロボティクス・ノーツ』でも同じなのだが)。
というか、もう一歩進めて考えれば、我々にとって「現実」として現れているものは既に、複数の並行世界の結節点のことであり、複数のそれぞれ孤立した並行世界が「交錯する(相互作用する)ことが出来る」という事実のことを「世界」と呼び、それらが実際に交錯することで開かれる場のことを「現実」と呼ぶのではないだろうか、とも言える。つまり、物理的な新宮(種子島)という場所というものが既に、いくつもの並行世界の結節点として成り立っているものなのだ、と。いや、そこにあるのはたんに複数の世界(系)の並立であり、「わたし」という一つの中枢がそこを通り抜けることによって、結節点としての一つの時空(場所)が開かれる、ということなのもしれない。だから「わたし」とは、ポケコンのウインドウのようなもの(複数世界のインターフェイス?)だと言えるのかも。