柴崎友香「また会う日まで」(1)

●「文藝」に載っている柴崎友香の小説(「また会う日まで」)を読んでいて(まだ半分ほどしか読んでない)、大阪から東京に遊びに来ている主人公の女の子が、高校時代に微妙に気になっていた男の子に会うために埼京線に乗っている場面で、車内で、黒髪が印象的な、爪を噛んでいる女の子を見かけるのだが、その部分を読みつつ、柴崎友香の小説のいいところは、これがあくまで車内で見かけた風景として書かれていて、この人物が実は偶然にも(勿論、小説だから偶然ではあり得ないのだけど)これから会いに行く男の子と関係のある人物だったりするとかいった、そういうわざとらしい伏線として描かれたりはしないところなんだよなあ、と思っていたのだが、読み進んでゆくと、なんとその女の子が男の子の部屋の前に立っていて、男の子と関係のある人物であることが分かり、なんというか、ガクッときた。柴崎友香の小説にそんなわざとらしい伏線なんて全く必要なくて、たんに、いきなり変な女の子が部屋の前にいたっていう展開で充分なのに、なんでそんなせこい技法を使うのかと思った。こういう技法は、小説を小説の枠内に、物語を物語の枠内に閉じ込めてしまうもので、柴崎友香の小説の開放的な感覚とは相容れないものだと思う。
●とはいえ、この小説の冒頭の、工事中の表参道駅へ電車から降りてくる場面の描写や、その後、友人達と会って飲みに行く、渋谷のビルの三階にあるベトナム料理の店の、(特に高級でもオシャレでもない、どちらかというとチープな感じのアジア料理の店に特有の)がやがや、ざわざわした感じ(を、酔った感覚で感じているような)場面の描写や会話は、柴崎友香特有のもので、前作の『フルタイム・ライフ』は確かに良い小説だったけど、あの小説は連載されたもので、特定の枚数をその都度書くという書き方で書かれたせいか、柴崎的描写がじっくりと描かれる場面はそんなにはなかったと思うのだが(それはそれで別のもの=時間の経過を、小説のなかに招き寄せることに成功してると思うけど)、この小説では冒頭からそれがたっぷりとあって、ああ、柴崎友香の小説を読んでいる、という感じが堪能できる。この人の描写は、けっして濃密で分厚いものではなく、半ば上の空で、ぼーっとしていて、しかしだからこそ特定の目的に縛られずに、様々なところに注意が分散してゆくような人が感じている感覚に近いもので、だからこそ、この作家の描く飲んでいる=酔っている人たちの場面がとても良いのだと思う。それにしても、この作家の小説の「書き出し」って、ほんとにどれも素晴らしいと思う。(柴崎友香の登場人物の多くが「写真を撮る人」であることは、柴崎的上の空の描写の注意の分散のあり様を示しているように思う。それは、写真から感じられるようなものでは決してなくて、あくまで、スナップ写真を「撮ろうとしている人」が周囲に対して示している、関心=注意のあり様に近い。だから「写真」によってでは、柴崎的描写の感覚を示す事は出来ないと思う。)