07/11/30

●お知らせ。「風の旅人」(vol.29)に、「ナイフと傷、反復と共鳴」という文章を書いています。あと、現物はまだ確認していませんが、「InterCommunication」(2008年winter)に、ICCでやっていた坂本龍一+高谷史郎のインスタレーション《LIFE -fluid, invisible, inaudible …》のレビュー(「たった一人で自分の頭の中に居るような……」)を書いています。
●『きょうのできごと』(柴崎友香)の文庫版に、単行本には収録されていない「きょうのできごとのつづきのできごと」という小説が載っていること(そしてそれが密かに傑作であるらしいこと)を知り、買おうと思って最寄り駅の駅前の本屋をのぞいたのだけどなくて、ひとつ隣の駅にある大型の書店まで散歩がてらに歩いて行って買い、近くのマクドナルドに入って、登場人物や細かいところなど忘れているので「きょうのできごと」から読みはじめ、半分くらい読んだところで、けっこう差し迫った用事のメールを携帯から出し(ぼくは、人との待ち合わせの時以外、普段はほとんど携帯を使わないのだけど)、つづきを読もうと思ったのだが、すぐに返ってくるはずもないメールの返事が気になって集中できないので、店を出て最寄り駅近くまで歩いて戻って、そこで再び、今度は最寄り駅前の、学校帰りの高校生たちでごった返しているマクドナルドに入って、その喧噪のなかでつづきを読んだ。
きょうのできごとのつづきのできごと」を読むと、自然に映画版『きょうのできごと』も観たいと思うようになっていて、その足で近所のツタヤへ寄って借りてきて、部屋で観たのだけど、映画はまったく面白くなかった。(面白くないので、この場面をもし自分が監督だったらどういう風に撮るだろうとか考えながらでもないと、とても最後まで観ていられなかった。)
きょうのできごと」を読んでいると、具体的にそんなに詳しい描写があるわけではないのに、一度だけその川っぺりを延々と歩いたことのある鴨川周辺の雰囲気を思い出すのだが(とはいえ、小説に出てくる「加茂川と高野川が合流して鴨川になるところ」を、ぼくは知らないのだけど)、映画では実際のその場所が映し出され、目に見えているにもかかわらず、たんに、どこにでもある「橋」としか思わないのは、考えてみれば不思議なことだ。(夜景で風景があまり見えないからというだけのことなのかも知れないけど。)
おそらく、面白い映画でもそうでない映画でも、映画の撮影現場というのはとても面白いものなのだと思う。しかし、面白い映画でもそうでない映画でも、その現場の面白さ(カメラの後ろ側の「空気」のようなもの)が出来上がった映画作品から感じられるものはあまりないように思われる。というか、その「現場」の空気から切り離すことで、映画という虚構の地平が成り立つということなのかもしれないけど。(でも、本当にそうなの?、みたいなことが「きょうのできごとのつづきのできごと」には書かれているようにも思える。)以前、多分『いま、会いにゆきます』とかいうタイトルの映画の、かなり大掛かりなロケ現場に行き当たったことがあり、大勢のスタッフがそれぞれバラバラに動いているのが面白くて、しばらく遠巻きに眺めていたことがあった。でも、その映画を観たいとはまるで思わないのだった。
(現場を遠巻きに外からみているのと、その内側で働いているのとでは、その見え方がまったく違うのだろう。「きょうのできごとのつづきのできごと」の原作者は、そのどちらでもない中途半端な「原作者」という位置から、撮影をみているのだった。)
●「きょうのできごとのつづきのできごと」は、「きょうのできごと」とつづけて読むと、ちょっと調子が変わっていることが感じられる。描写の(というか、運動の)粒が細かくなって、その粒がくっきりと鮮明になっている感じがするのと、あと、けいとと真紀が、ちょっと大人っぽくなった感じがする。
きょうのできごとのつづきのできごと」では、A面で、自分が別に何とも思っていない男の子から好意をもたれているということの不思議さ、そして、その他人の頭のなかにある感情によって、自分の感情すらも変化してしまうかもしれない事に対するとまどいのようなものが繊細に、「きょうのできごと」の登場人物たちによって(虚構の次元として)語られていて、B面では、映画『きょうのできごと』の撮影現場を見学している原作者が、自分の頭のなかでつくられたものが、大勢の他人たちによって別の形になってゆく様をおどろきとともに眺めている顛末が、撮影のルポ風に描かれる。一方で、他人の頭のなかにあるものが、自分を動かして、自分のなかに別の感情が生まれるかもしれないこと(その微妙な徴候のようなもの)と、もう一方で、自分の頭のなかにあったものが、他人を動かし、それによって別の「形をもったもの」が、今、実際に生まれつつある瞬間にたちあっていることとが、繊細な手触りで捉えられて、裏表のように対置され、そのふたつの世界がふっと交錯する。この小説では、ある現実的な状況から、頭のなかに虚構に次元が立ち上がることと、その虚構によって、今度は現実的なものが動かされてゆく感触が、京都の冬の夜が更けてゆく底冷えのするような寒さの感覚(京都の冬の夜のことなんてほとんど知らないけど)のとともに、浮かび上がってくる。フィクションがリアルであるということはどういうことなのか、という感触が、ふわっと素早く救い上げられている感じがする。