●「野生時代」12月号に載っている「つばめの日」(柴崎友香)を読んだ。散歩の途中で本屋に寄って買って、その近くのマックでコーヒーを飲みながら読み、帰り、午後から夕方までは、近所の喫茶店で用事をしていて、それが一段落ついてから、もう一度読み返した。
すごく面白かった。なんというか、「面白くないところが一行もない」という感じ。いろんなものがみっしりと詰まっていて、すべての部分が同等な強さをもっていて、僅かの抜けもなく、しかしそれが一本調子ではなく次々と転がってゆくので、単調になるわけでもない。こういうすごい密度は、短編だからこそ可能なのかもしれないけど、1イニングなら絶対に打たれないストッパーの投球をみているような感じ。
『主題歌』に収録されていた「六十の半分」では、空間的な広がりと立ち上がるイメージの鮮やかさに驚かされたのだけど、それとはまたちょっと違う感じで、様々なことがらが、継起的に次々とあらわれては消え、あらわれては消えして、それら一つ一つが束のように重なりあって厚みとなり、うねるようなグルーヴがつくりだされる。ここでは本当にいろんなものが同時に動いている。物が動き、動物が動き、天候が動き、人が動き、出来事が動き、言葉が動き、視線が動き、注目するフレームが動き、考えが動き、感情が動く。その一つ一つの動きは決して大きいものではないが、それらがふっと動く瞬間が的確に捉えられる。いろいろなものが同時に動いていたとしても、言葉はそれを継起的、単線的にしか書けないわけだけど、複数のものが同時に動いている感じを、単線的な言葉の連なり(と断絶)という、リズムというか「展開」によってパッと掴んでしまう感じが、この作家の他の作品と比べても特に冴えているように思われた。連なりと断絶が作り出すリズムが、単線的な時間をたわませ、厚みと広がりを作り出す、と言えばいいのか。
それと同時に、この小説の魅力は、登場人物が(というか、人物と人物との接触感が)とても繊細に捉えられているというところにあると思う。大人になった人物たちによる『次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?』とも言えるこの小説では、『次の町まで』にあった無防備で楽天的な資質の露呈みたいな感じはなく、三人の女性と、後から出て来る一人の男性という、それぞれの人物は、それぞれのキャラクターなりのやり方で、他の人物に対する配慮をみせており、この配慮の的確な描き込みが、この小説の独自の感触にもなっていると思う。配慮というのはつまり遠慮でもあるので、『次の町まで』の人物たちのように、ズケズケとキャラクターの資質が発揮されるような「抜けた」感じのさわやかさはないということなのだが、しかし、この配慮-遠慮が、「それぞれのキャラクターなりのやり方」でなされるということ、その「キャラクターなりのやり方」を捉える描写が的確であること、によって、つまり、「距離感」を的確に描写することによって、微妙な「接触感」を強く感じさせ、さらにそれが、一人一人のキャラクターの感じも活き活きと浮かび上がらせることになっていると思う。
例えば、故障した車がレッカー移動される時、レッカー車の助手席には二人しか座れないので、三人の女性のうちの一人が、レッカー車の荷台に乗せられた車の座席の座って移動することになるのだが、すごく浅く考えるのならば、主人公が荷台の車に乗って、そこから眺められる「珍しい風景」が描写されつつ(最初は物珍しくてはしゃいでたけど、だんだん酔ってきた、とか)、助手席の友人たちと携帯電話で話す、という風にした方が、場面として面白くなりそうな気がするのだが、この小説で問題にされているのは、そいうい種類の面白さではなく、あくまで、「アコちゃん」という登場人物は、(一見、天真爛漫というか、こだわりのないような人にみえて)この三人の関係のなかでは常に「後部座席に座る人」という感じで一歩引くような人だ、ということをちゃんと描くことにあるのだし、助手席に座った主人公が、ほとんど接点がないと思われたレッカー車の運転手の男の子とふっと話が通じ、そのことで僅かに心が動く感じが描かれることの方にあるのだと思う。