柴崎友香「その街の今は」(「新潮」7月号)

柴崎友香「その街の今は」(「新潮」7月号)。最近本がなかなか読めなくて、本を開いて5、6ページ読むとたいがい飽きてしまうような感じだったのだけど(なんと言うのか、ある「前提」を無条件に押し付けられているように感じるとしらけてしまうのだった)、この小説は書き出しから一気に引き込まれて、途中で一度も集中が途切れることなく最後まで読むことが出来た。柴崎友香の小説は何故こんなに面白いのだろうか。前に「文藝」に載っていた「また会う日まで」は、エキセントリックな人物が出てきたり、微妙な回想の使い方があったりしたけど、この小説はまったく何ということもない話で終始していて、言ってみれば、いろいろな意味で宙づり状態にいる主人公が、大阪の街をうろうろしているだけの話なのだけど、それがこんなに面白いのは、まず何より文章そのものが面白いからだろうと思う。柴崎友香の小説の書き出しを読む時、防音され空調も効いた窓のない部屋の重たい扉をぐーっと開いた瞬間、外の喧噪や空気が一気に入り込んできた時のような驚きや新鮮さがあり、そしてその感じが強くなったり弱くなったりして移ろいつつも、最後まで途切れずに持続する、という感じなのだ。全ての場面が素晴らしく面白いというわけではないが、それでも、読んでいる途中に、軽く退屈したりしらけたりするところが一カ所もない。それはすべてが完璧に出来ているという意味ではなくて、どの場面、どの文章においても(その場面が小説として上手くいっていようといまいと)、柴崎氏が世界と触れ合う感触が刻み込まれているからだと思う。ぼくは小説家ではないから断言はできないけど、こういう感じは、(ある前提を受け入れた上で、そのなかで)「つくる」のではなくて(あらゆる前提が頼りに出来ない場所で、その都度の何かを成立させつつ)「書く」ことのなかからしか生まれないんじゃないかと思う。
●それにしても、柴崎氏の小説は、(『次の町まで...』や『青空感傷ツアー』などに比べ)随分と大人っぽくなった感じがする。(こういう言い方は既に三十歳を過ぎている作家に対して失礼なのかもしれないけど。『フルタイムライフ』や、『ショートカット』に載っていた「ポラロイド」あたりから、「子供だけの世界」ではなくなってきた感じがする。)大人っぽくなったとは言っても、登場人物が分別臭くなったりとか、小説が技巧的になったりとかしているわけではなくて、登場人物は相変わらず社会性も目標も無くふらふらしているのだけど、自らの資質のみをナマに露出しているような人物ばかり出てきた以前の小説に比べると多少抑制が効くようになったというのか、例えば、以前の登場人物だったら、結婚してしまった男に会いに行くのことを保留したりしなかっただろうし、新しく会った年下の男の子をもっと軽く(ぞんざいに)扱っていたのではないかと思う。あと、主人公と同年代の人物ばかりでなくて、年齢の離れた人物が出て来るようになったのも大きいように思う。「その街の今は」に出て来る(と言うか、中心の主題の一つである)古い写真は、『フルタイムライフ』の上司のような年齢の離れた登場人物の延長にあるようにも感じられた。
●この小説は阪神が優勝した年の九月の大阪を舞台にしている。だから2005年の話かとも思うのだけど、ぼくが2005年の七月にゴッホ展を観に大阪に行った時、戎橋では、阪神が優勝した時にファンが道頓堀に飛び込まないように、柵を高くする大規模な工事が行われていたのだが、主人公は戎橋あたりを頻繁に通るのにもかかわらず、そのことが小説でまったく触れられていないので、もしかすると2003年の話なのかもしれない。(九月にはもう工事が終わっていた、ということなのかも知れないけど。)