小島信夫『抱擁家族』

小島信夫抱擁家族』。この小説は以前に何度も読もうと試みたことがあるが、いつも最後まで読み通すことが出来ないでいた。『残光』、『女流』と読み継いだ今なら、何とかいけるんじゃないかと思って読み始めたのだが、この、大して長いわけではない小説を読み通すのに一週間以上もかかってしまった。この小説は読み進めるのが「つらい」のだ。それは、退屈だからでもつまらないからでもなく、むしろ逆に強烈過ぎるからで、実際に読んでいる時は惹き込まれているのだが、一旦本を閉じると、再び開くのにかなりの覚悟がいる。あのヘビーな世界にまた入って行くのかと思うと、気が重くさえなるのだった。
●とにかく、小島信夫の小説の登場人物は、他者や世界に対して「親しみ」を感じることがないし、「休らい」を感じることもない。それらは常に油断のならない、先の見通せない緊張を強いるものなのだ。そのような、世界や他者から漂って来る油断のならないピリピリした空気や気配が、この小説では特に濃厚なのだ。この緊張感によって、あらゆるシーン、あらゆる行が、常に新鮮であり、唐突であり、リアルであり、重たくもあり、痛くもあり、そして訳が分からない。(まるでカサヴェテスの映画を観ているようだ。小島信夫とカサヴェテスは全く似てはいないのだけど。)主人公の俊介には余裕というものが全く欠けている。(というか、この小説で多少なりとも「余裕」があるのは、家政婦のみちよと、山岸という人物くらいだろう。しかし、みちよの余裕はねっとりとしたずうずうしさのようなものだし、山岸の余裕は、状況に関する無関心というか、無配慮によって確保されているようにみえる。)俊介は、他者や世界に対してギスギスしたぎこちない(慣れることのない)関係しか持てないのだが、その、他者や世界という不可解なものは、彼にとってたんに疎遠なものなのではなく、彼を振り回し、時に、肌にべっとりとまとわりつくように重たくのしかかってくる。そして、俊介にとって他者や世界が不可解なのと同じくらい、読者にとっては、俊介という人物の感情や行動の流れが全く不可解なのだった。
●俊介に最も強い緊張を強いるのは勿論妻の時子だろう。とにかく、この夫婦には「馴れ合い」が生むであろう、惰性的ではあっても平穏な感情の共有というのがあり得ないのだ。俊介を緊張させるのは、たんに妻の言動の不可解さ(不透明さ)や唐突さだけでなく、その存在の(女性性の)あまりの濃厚さでもある。つまり、身体としての存在の強さと言い換えることも出来る。(俊介は、妻がこんなに魅力的に見えてはいけないのだ、とか思いつつ、妻のからだをじろじろと眺めたりする。)小説を読んでいて、登場人物に対して、こんなにも「女臭い」と感じたことは他にはないと思う。(「女臭い」という表現は勿論男性からみたものなのだけど。)この、全く「馴れ合う」ということがないギスギスした夫婦は、しかし決して疎遠な訳ではなく、むしろ過剰にベタベタと触れ合ってさえいて、これ以上ないというくらいに、相互に依存し合っているし、もたれ合ってもいる。この関係はまさに「気持ちが悪い」ものなのだが、同時にひどく感動的でもある。(この関係は、たんに日本的な、「個」が確立していない、未成熟な相互依存の関係なのだと言って済ませてしまうには、あまりに苛烈過ぎるのだ。)特に、死に向かう妻との身体的な接触が書き連ねられるところなど、この小説は苛烈な恋愛小説のようでもある。しかし、ここまで濃厚な関係であるにも関わらず、時子が亡くなってしまうと、俊介は「家」のためとか言って、すぐに再婚を考え、複数の女性に対して勝手な妄想を抱き、そして勝手に失望したりもするのだった。
●この小説の「あらすじ」だけを取り出してみれば、割合ありふれた紋切り型とみることも出来る。しかし、実際に読んでみるととんでもない。全ての行に油断のならない緊張感と唐突な展開への予感が立ちこめていて気が休まるところがない。主人公の俊介は、他者の言動の意味をすんなりと理解することが出来なくてその不可解さに余裕なく振り回されるのだが、読者からみると、その俊介こそが最も不可解ですらある。しかし、俊介の言動や感情の流れがいかに唐突で理屈にあわないと言っても、「あらすじ」の次元に均せば典型的な話に納まってしまう。しかし、読めばとんでもない....。
●この小説を構成している文章もまた、かなり妙なものだ。例えば、この小説の物語が、時間としてどのくらいの期間を描いているのか、読んでもよく分からない。この小説では「家」がとても重要な舞台となるのだが、二つ出てくるそれぞれの家が、どのくらいの大きさの家なのか、間取りはどうなっているのか、外観の視覚的な印象はどんななのか、は、さっぱり分からない。(一つ目の家と二つ目の家との距離や位置関係もわからないし、病院との距離感もわからない。)良一とノリ子という二人の子供が出て来るのだが、この子供の年齢がはっきりしない。この二人は特に終盤では重要な人物であるのだが、年齢がわからないので具体的に描写してあっても印象がボケてしまう。この小説では、そういう細かい(が重要な)ところの記述が妙に溢れ落ちて孔になっていて、かと言って抽象的な記述がされているのではなくて、妙なところで細かかったりして、とにかく小説の記述を支えている基盤(何が描かれ、何が描かれないかという基準)がヘンなのだ。時間と空間のなめらかな連続性のようなものが壊れている感じで、妙なところが執拗に描かれているかと思えば、いきなり間がすっぽり抜けていたりする。
●この小説の簡潔だが不透明な文の連なりを読んで思い出したのは、ドゥルーズによるクロソウスキー論の、例えば次ぎのような部分だった。(しかし、小島信夫クロソウスキーが似ているかと言えば、全く似てはいないのだけど。)
《身体は何かを示しつつそれと反対のことを伝える身ぶりを行うことができる。こういった身ぶりは、言語においてソレシスム(誤用・くいちがい)と呼ばれているものの等価物である。たとえば、一方の腕が陵辱者を押し返しているとき、もう一方の腕は、期待し、彼を受け入れるかに見える。あるいはまた、一方の腕だけについてみても、手のひらを差し出さずして押し返したりはできないのだ。そして指の戯れ、そこには伸ばされた指もあれば曲げられた指もあるのだ。》(「クロソウスキーあるいは身体-言語」浅田彰市田良彦・訳)