『カフカ/夜の時間』(高橋悠治)

●夕方になってから表へ出てみると、思いのほか日が延びている(というか、暮れるのが遅くなっている)のを感じた。
●昼間眠っていて夢をみた。着ている服の袖口のあたりから、粉をふいたような小さな白い虫がぞろぞろと這い出てきたので驚いて服を脱ぐと、身体じゅうからシメジのようなものが生えていた。うわあ、と思って手で払ってみると、それは(買ってきたシメジの塊をほぐすように)簡単にボロリ、ボロリ、と身体から剥がれるのだが、そのボロッと剥がれる感触がすごく嫌な感じで、目が覚めてからもずっと、今もその気持ちの悪い余韻が皮膚の表面に残っている。(その前にとても幸福な感じの夢をみていた記憶があるのだが、それがだいなしになった。)
●固有名が出てこないことが最近よくある。人と話していて、話題にしたい友人の名前とか、あるいは作品や作家の名前なんかが、なかなか出てこない。その人の顔や、作品のイメージは明確に浮かんでいるのに、言葉が出てこない。ただ、ぼくは自分の頭の性能を今まで生きて来て知っているので、こういうのはそんなに気にならない。それより最近気になるのは、妙に「忘れ物」をすることだ。どこへ出掛けるにも、何かしら一つくらい持って行くものを忘れる。あるいは、何か用事をした時、何かしら一つくらいのことをし忘れる。こういうことは「後」になってはじめて気付くことで、このような(意識の連続性を揺るがすような)「欠落」の事後的な発覚は、やはりなんとも気持ちがわるい。まあこれも、ぼくは自分が「抜けた」奴だということを知っている、という風に納得することも出来るのだけど。
●ここ何日か、本棚の奥から取り出した『カフカ/夜の時間』(高橋悠治)という本を読んでいる。パラパラとページをめくり、眼にとまったところの文章を、とてもゆっくりとした速度で、何度もくり返して追ってゆく。この本の冒頭の「病気・カフカ・音楽」というエッセイは、病気で入院している時のことが書かれている。
《病気は突然はじまる。おもいがけないところの、おもいがけない痛み。それがうすらいでゆくにつれて、自信がもどってくる。だが、これからが本当のはじまりなのだ。健康だと信じていた間も病気はもうそこにあった。それはいま自覚症状さえないからだをしっかりつかんでいる。からだだけのものともいえないだろう。健康でいた時間全体にわたって、生きていることそのものが病気の表現だったと、おもいあたることになるのだ。その時はもう病院にいる。》
《ここにいると、待つことをおぼえる。自分では何もできずに、医者や看護婦にしてもらうまでじっと待っている、というだけでなく、何よりも、からだがひとりでに回復してゆくのを感じながら、ただ待ちつづける日々。》
《病名どころか、からだのなかで何が起こっているのか、本人も医者もわからないままに入院している人たちがいる。すこしずつさぐりをいれながら、じっと待っている。何を待っているのか、だれもわからずに。》
《病院の夕食は五時。その後はもう、することがない。自分のベッドのまわりにカーテンを引き回し、消灯時間を待たずにしずかになる。それぞれの病気だけを相手に夜をすごすのだ。》
《夜のこわさ。夜でないこわさ。》
●あるいは、この本に付録として挿し挟まれている浅田彰との対談での発言。
カフカで面白いと思うのは、たとえば小ささということかな。自分をだんだん小さくしてゆくと、極限においてどこに行きついて、そこでどういうふうに人と出会うか。それを書くだけじゃなくて、実際そういうふうに生きていくんだよね。カフカは、最後には病気になるでしょう。水も飲めなくなって---そこまでいくと、極限状態のコミュニケーションの形が見えてきたんじゃないか。それまで、ユダヤ人が借り物であるドイツ語で何を書いてもウソにしかならないという根本問題を抱えている作家が、実際に病気になって、動けないで、声が出せないで、書くだけになってしまう。そうするとたとえば、花が活けてあって、それが水をどんどん飲んでいるということを書くわけね。その時点において頼っている言葉は、いままで書いてきた言葉とは違う意味で使われている言葉だよね。そういう状態に興味がある。》