●昨日の興奮がまだからだのなかに残っている。ネットカフェに行って、もう一度「sygyzy」の予告編映像(http://www.youtube.com/watch?v=FqItxjDi7Nc)を観てみたのだが、24日には、あれほど面白そうに見えた映像が、なんだか気が抜けたもののように見えてしまった。それだけ、昨日観たパフォーマンスの衝撃が凄かったということだ。その違いは、映像とナマの違いというよりも、動きそのものの質や精度の違いなのだと思う。映像は、おそらくリハーサルを撮影したものを編集したのだろうから、当然と言えば当然なのだが、本番とはテンションが違う。板がバタンとひっくり変える時の衝撃の強さとか、板から滑り落ちてくる時の身体の重さの感じとか、走って板に飛びつく時の、板と人体とが触れるタッチの強さ、板のしなる感じとかも、かなり違うように思えた。
今、ぼくのからだのなかに、こだまのように残っているのは、動きそのものというよりも、打ち付けること、「打撃」の強さのような感覚であり、それが延々とつづいてゆくような感覚だ。大きな板がバタンとひっくり返る時の、派手で暴力的だが、あくまでも乾いて即物的でさわやかでさえある打撃と、重たい木の柱がゴツッと倒れ、転がったりする時の、それよりもやや鈍さと重さをともない、内側に籠って響くような打撃、そして、やわらかくて水分を含んだ肉をもつ人体が、繰り返し床に打ち付けられる時の、肉で衝撃が吸収されるので柱よりもさらに鈍く、しかし、その奥に骨があり、その衝撃が確実に骨にまで響いているという重さをもつ、ガツッという打撃。それらが重なり、ズレをもちながら、繰り返し、繰り返され、その打撃が、打撃を受けている主体を離れ、振動となって迫ってきて、それを観ているこちらの身体に、精神に、打撃を、繰り返し与えてくる。ひたすら繰り返される理不尽さとばかばかしさ、面白さ。しかしそれが笑いとして結実し顕在化する一瞬前に押しとどめるシリアスな緊張と拍動。その打撃が、幾重にも重なって、こだまのように、軽く、または重たく響き、からだに蓄積されてゆく。そのような、フィジカルで即物的であると同時に、高度に抽象的な感触と興奮。
ネットカフェからの帰り、大回りして川沿いの道を通って最寄り駅まで戻り、いつもの喫茶店で、ゲラの直しの再度の確認をし、すこし本を読んで、目もをとり、ゲラの直しを投函し、延滞してしまったDVDを返却し、スーパーに寄って買い物をして、部屋に戻った。