吾妻橋のアサヒ・アートスクエアで、振付・捩子ぴじん、出演・神村恵、福留麻里「sygyzy」(「グロウ・アップ・ダンス・プロジェクト」)。素晴らしかった。無理してでも観に行って本当によかった。何がなんだかよく分からないが、とにかく面白い。面白いっていうのは、意味もなにもなく、ただ、いきなり面白いということなのだ。はじまったその瞬間から、えーっ、という驚きに包み込まれ、からだじゅうがもう、面白い面白いとざわざわしはじめる。一人のダンサーが体よりも大きな木の板を引き摺る。その後について歩くもう一人のダンサー。かと思うと、くるっと振り返ってタタッと走って板から遠ざかり、またくるっと振り返って、走って板に近寄り、ダッと板に飛びつき、しがみつく。板はダンサーの重みでしなる。最初はもう、あっけにとられて、ぽかんと口をあけて眺めていたのだが、しばらくして少し落ち着く余裕が出来ると、ぼくは今、「芸術の核」としか言いようのない何かに、確実に触れているのだ、という思いがこみ上げて来る。おそらく、人類がはじまってから何万年も、ずっと反復されているものは、つまりはこういうことなのだ、と。目の前で、ナマで、バスター・キートンの最もハードな部類にはいるようなパフォーマンスが、延々と、無表情なまま、反復されている、と言えば、多少はイメージが掴めるだろうか。あるいは、凄く動くベケット、とか。
ハードでミニマル。いくつかの基本的な要素が、二人のダンサーが役割を交代させたり、空間的な位置を変化させたり、多少、バリエーションとして発展させたりしながらも、延々と反復される、という構成なのだが、その単位となるひとつひとつの動きのいちいちが、難しそう、大変そう、痛そう、怪我しそうで、とにかく無茶苦茶に身体能力と体力を必要としそうな動きで、しかし、あまりに高度な身体能力が逆に身体の能動性を奪ってしまうかのような動きで、しかもそれが、つかの間の緩みもなく、ほぼ同じテンションで、濃厚に詰め込まれて、ずっとつづく。あっちへ行っては、こっちへ戻り、掴み掛かっては、滑り落ち、組み立てては崩し、立ち上がっては倒れ、ひっくり返しては、逆にひっくり返し、横たわっては捻って立ち上がり、抱えては、降ろす。それらの動きが、緩急も、ドラマチックな展開もなく、ただ、ひたすらに高い難度、高いテンションで、一本調子でつづいてゆく。木の板があり、木の柱があり、それらがひっくり返り、倒れるように、人も、ひっくり返り、倒れ、左右に揺れる。もし、下手な人がやったら、「危なっかしい」という感じが前に出てしまい、へんなサスペンスが生まれてしまうかもしれないのだが、二人のダンサーは、この滅茶苦茶ハードな動きを、たんたんと、安定した調子でつづけてゆく。だからそこにあるのは難易度をことさらに示す動きではなく、ひたすらナンセンスであり、自身の動きそのものの力だけによって、その動きの価値を支えるような動きの強さだろう。高度な身体能力、運動能力が、人間の身体をどんどん非人間化し、立っては倒れ、立っては倒れて、何度も何度のその身体を床に叩き付ける。身体が解体されて世界のなかに散らばり、身体そのものが、地面を叩いて鳴らす打楽器となり、あるいは、身体が反復するリズムそのものへと変質してゆくかのようだ。
同じような要素の反復なのだが、しかし、ひとつひとつの動きがあまりに「難しそう、大変そう、痛そう、怪我しそう(しかし、この言い方はあまりに人間的過ぎで、実際には「痛そう」と思う余地すら観客に与えない強さと潔さとで、ダンサーは床に身体を叩き付け、また叩き付けて、それをつづける)」で、つまり、動きのひとつひとつが、常に一回毎に、気合いと決断と力と覚悟と集中を込めてなされる必要があることがあきらかに見てとれるので(繰り返すが、しかし、動きにそのような逡巡や隙が見えるわけではまったくない、見た後に振り返って考えてみれば、そうとしか思えないということなのだ)、単調な反復なのにもかかわらず、反復による催眠効果というか、モアレ効果がまったくあらわれず、単調に反復される動きの一回一回が、前とほとんど同じであるにも関わらず、しかし、その都度、その時の一回的なものとしてあらわれてくる。毎回同じ動きが、毎回その都度、まったく新しく生まれるかのようなのだ。それによって、常に、そこから、世界が生まれつづける、というのか。それが「言葉」としてではなく、目の前で実際に起こっているのだ。そのような意味では、ミニマリズムではまったくない、と言うべきなのかもしれない。延々とした反復が、安易な原始主義的に呪術性へと堕落することもなく、動きのあり様は常に高度に抽象的であり、高度に「モダン(ベケットがモダンである、というような意味において)」だとさえ、言っていいと思う。
とにかく、こういう言葉では全然届かないほど、唖然とするくらい、凄くて、面白い、のだ。アフタートーク振付家が、あまりに無理な要求ばかりするので「ダンサーにキレられた」と言っていたが、そりゃあ、キレて当たり前だと思う。「いや、どんな無理を言っても(ダンサーが優秀なので)出来てしまうので」とも言っていたが。自分でやるならともかく、こんなことを平気で人に要求出来るなんて、なんと酷い奴なのだろうと思う。ダンサーはダンサーであって、「人間」ではない、と思ってるんじゃないだろうか。「ダンサーは、途中から、もう諦めて、やるしかないと受け入れてくれました」と。なんと酷い奴で、しかし、なんて偉い奴なのかと思った。このダンサーたちに、これをやらせるのは、決定的に正しいと思う。そして、こんな無茶なことを、結局は「受け入れ」て、やってしまうダンサーは、なんて偉い人たちなのかと思った。意味以前にある何か(動いているもの、触れるもの)が、確実にあり、そして、生きていて本当に重要なのは「それ」だけなのだ、ということは、こういう作品を経験することによって知ることが出来る。