⚫︎ちょっと、昨日の続き。ぼくはヴァージニア・ウルフを日本語で読んでいる(原文にあたっていない)。最初にどんな翻訳で読んだかということで、かなりその作品に対する印象が決定づけられてしまう。前にも書いたが、初めて読んだ『灯台へ』は、伊東只正という人が翻訳したものだった(『燈台へ』というタイトルだった)。まだウルフという名前もなにも知らない時で、ジャケ買いというか、古本屋にあったその本の佇まいになんとなく惹かれて買った。そして、読んでとても驚いた。こんな小説があるのか、と。
後になって、その翻訳がかなり特異なものであるということを知った。例えば、河出書房の世界文学全集で『灯台へ』の翻訳をした鴻巣友季子はツイッターに次のように書いている。
《私的には『灯台へ』は伊東只正氏の翻訳(開明書院)が凄かったです。あえて自由間接話法をすべて「内的独白」風に訳し直しているという、型破り、掟破りのものですが、大変勉強になりました。古書で入手できたらぜひ!》
https://twitter.com/yukikonosu/status/22906476502712320?lang=cs
鴻巣友季子・訳のものも読んだし、東工大で文学の授業をしたときは鴻巣・訳をテキストとして使ったのだが、それでもぼくにとって『灯台へ』は最初に読んだ伊東只正・訳のものであるという感じがどうしてもあり、そういうものとして焼き付けられてしまっている。
昨日の日記に書いた「憑かれた家」も、他の人が翻訳したものをみると雰囲気がかなり違う。みすず書房から出ているヴァージニア・ウルフ・コレクション『壁のしみ』の川本静子・訳だと、書き出しは次のようになっている(タイトルは直訳的な「幽霊屋敷」)。
《いつ目を覚まそうと、ドアの閉まる音がした。ここを持ち上げたり、あそこを開けたりして、確かめながら、手を取り合って、部屋から部屋へと歩いていく――二人連れの幽霊。
「ここに残しておいたの」と女が言った。すると「あ、でも、ここにもだよ ! 」と男がつけ加えた。「二階よ」と女がつぶやき、「それから庭にもね」と男がささやく。「そうって行かなくては」と二人は言う。「さもないと、あの人たちを起こしてしまうからね」
だけど、あなたたちが私たちを起こしたのではない。絶対にそうではない。「二人は探しているんだよ。カーテンを引いているよ」と言い、本を一、二頁読みつづけるだろう。「ほら見つけたな」と思うだろう。鉛筆の手を頁のはしで止めながら。それから、本を読むのに飽きて、立ち上がり、自分で見て回る。》
かなり読みやすくなっているが、もし、最初に読んだのがこの翻訳だったら、ぼくはこの作品に引っ掛かることなく、さっと読み流してスルーしていただろうと思う。だから厳密には、ぼくがインパクトを受け、影響を受けたのは、ウルフなのか西嶋憲なのか、そのどちらでもなく両者が絶妙に入り混じって偶発的に出来たキメラ的な産物なのか、よくわからない。