●洗濯中の洗濯機のなかで靴下の片一方が姿を消すという密室殺人並みの不条理な出来事が、なぜこんなにもしばしば起ってしまうのだろうか。
●ぼくの今度出る本では、ある作家や作品について論じる時に、その作家の作品以外のものを引用したり、言及することを基本的にはしていない。つまり、磯崎憲一郎論では磯崎憲一郎の小説以外のものが引用されることはなく、例えばベンヤミンとかドゥルーズとかを引用して、「ベンヤミンによれば…」みたいな書き方をしたり、ボルヘスなりガルシア=マルケスなりを取り上げて比較したりとかをしていない(例外的に、柴崎友香論では、ある種のサスペンスの宙づり状態を説明する例として『めぞん一刻』という作品名が書き込まれているけど、高橋留美子と柴崎友香が比較されているわけではない)。別に、そのような書き方を頭から否定しているわけではないし、厳密に自分に対して禁じているわけでもないのだが(そんなことしたら何も書けなくなる、前の本ではけっこういろいろ引用しているし、最近の日記でもレベッカ・ホルンをデュシャンと比較している、それに、昔「セザンヌと村上隆を…」みたいな文章を書いた憶えもあるし)。
でも、「批評」っぽい文章を読んでいて、そこでそれが引用される必要があるの?、というところで、まるで権威付けするみたいに、あるいは、こんなに勉強しているんだ(だから私は正しい)と主張するかのように、ビックネームが引用されたりすると、ちょっと恥ずかしい(アカデミックな論文で先行研究が参照されるのは勿論別の話)。あるいは、それを並べる根拠がどこにあるの?、と疑問を感じてしまうような任意の作品をいくつか並べて比較して、即席の三題噺みたいな安易な批評的物語をでっちあげたりするのも、恥ずかしい。勿論、その引用にたんに権威付けではない必然性が本当にあるのであれば、あるいは比較される作品相互に内在的な関連性が本当にあるのならば(作品がきちんと尊重された上でその潜在的関連性の発見-創出が語られるのならば)、当然それはそうされてしかるべきだけど。
それはともかく、今回の本でやろうとしているのは、出来る限り作品に寄り添って、というか、作品の内部に入り込んで、作品に従って作品ついて書くということだった(繰り返すが、それのみが唯一正しいやり方だと主張しているのではない)。とはいえ、ある作品が、それだけで周囲のすべてから切り離されて真空の宇宙空間にぽっかりと浮いているわけではないし、その作品を読むぼくという存在が、まったく偏りのない中立的な装置であるわけでもないのは当然のことだ(もしぼくが中立的な装置だとしたら、そもそも作品を必要としない)。作品の内側に留まって書くということは、むしろそのことによって、作品とその外との関係や、作品からその外へとひろがってゆく広がりを丁寧に捉えるためだとも言える。ただ、その作品の根拠を、作品の外に求めることは禁欲したい。作品の外にある権威-フレームのようなものに、作品をもたれかけさせるようなことは、禁欲したい。作品の、フレームからの自律性のようなものをこそ、その力をこそ、捉えたい。
ただ、この本の全体を通して三カ所(三人)だけ、実際に論じている作家ではない別の作家の名前が出てくるところがある。その作家の作品が引用されたり、その作家について特に言及したりはしていないのだが、前後関係からみると唐突な感じで、名前がポロッと出てくる。この三つの名前との関連によって、この本で取り上げている作家たちを権威づけようというのではない。この本は、勿論まず第一には、実際に取り上げられている作家や作品についてのことが書かれている。しかしそれと同時に、その裏で、この三つの名前がかすかに響いてもいる。
三つの名前というのは特に斬新なものではなく、ごくありふれた、当然すぎるほど当然な超メジャーな名前で、それは登場順に、ベケット、ディック、カフカなのだった(正確に言えば、カフカのついでにブロートの名前も出てくるけど)。