ラウル・デ・カイザー展を観て思ったこと

●初台のワコウ・ワークス・オブ・アートで、ラウル・デ・カイザー展を観た。そんなに素晴らしくは良くないけど、ちょっと面白かった。おそらく、八十年代以降の「現代アート」は、作家が「形式」に自分自身を賭けることができなくなった。抽象表現主義、ミニマルやコンセプチャル、そしてポップアート(ネオダタ含む)くらいまでなら、ある作家が、例えば「自分はポップアーティストだ」ということに、自分自身の作家としての「存在」を預けることができたのだと思う。(それは逆に言えば、「形式」に作家の実存が縛られていた、ということでもある。)しかしそれ以降、美術史的にメジャーな(というか先鋭的な、最先端な)形式が成り立たなくなったこともあって、形式は常に任意なものとなった。つまりそれ以降の作家は、自分自身と不可分であり等価であるような形式を持つことができないから、形式やイメージを(既にあるもの、外在的なものとして)「扱う」手つきの冴えや、その(政治的)立ち位置によって自らの作家性を際立たせるしかなくなった。形式は作家の存在を支えられず、交換可能で、たんに社会との関わりのなかで移ろい行くモードに過ぎないものとなった。それでもなおかつ「絵画」を描こうとすれば、どこかしら皮肉でアイロニカルなものにならざるを得ない。イメージも形式も、とりあえず選択されたものに過ぎませんよ、決してこれを本気で信じちゃってるわけではないんですよ、信じるに足りる形式やイメージなどどこにもないことは分ってるけどとりあえず信じたふりぐらいしなくちゃね、というエクスキューズが、作品の前に分厚い遮蔽層をつくっている。(まるでそれが「知的」なことだとでも言うかのように。)その皮肉な遮蔽層を、人を煙に巻くような軽々とした鮮やかな手つきで見せる(タイマンスやポルケのように)か、それとも、もっともらしく真面目ぶって深刻なフリをして見せる(リヒターやデュマスのように)か、という違いでしかなくなってしまう。しかしそれはどちらにしても、言い訳に言い訳を重ねているだけようにしかぼくには思えない。
ラウル・デ・カイザーの作品もまた、信じるに足りる形式などどこにもないという前提からはじまっているように見える。しかしそれでも、その信じるに足りないものを使って、どうしたら信じるに足りるものを作り出せるか、というところを(言い訳に言い訳を重ねることではなく)、問題にしてはいるようには思えた。だからその作品は、死体に無理矢理大げさな衣装を着せて化粧をほどこしたような作品ではなく、生きた感触を伝えるものになっている。しかし、その生命は、どうしても脆弱なもののようにも思えた。
●それはともかく、一番驚いたのは作品の「値段」で、15センチ×20センチくらいの小品に、平気で三百万とか四百万とかいう値段がついている。(しかもキャンバスの張り方やパネルの組み方がすごく雑でチープなのだった。どう見ても原価数千円ぐらいだ。勿論それ自体は、作品の「内容」と合っていて必然性があるのだけど。)その作品の、人の視線を活気づけつつも、すっとはぐらかすような、軽やかさをもった「内容」と、その重たく大げさな値段とのギャップに驚くのだった。
三百万や四百万で驚いているのはぼくが貧乏で成功していない画家だからで、お金持ちのコレクターからすれば、「そのくらいの値段」がついているアーティストじゃないと「信用できない」ということになるのかも知れないのだが。アートというのは(ここではあえて「芸術」とは言わない)確かに、権威付けによって成り立っているものであり、その権威を形に表しているのが「値段」ということになる。アートが分るということは、ほんの15センチ×20センチ程の小さなものが、三百万もするという「価値」を理解出来るのだというステイタスであり、そしてそれを買うことができる経済力(社会的な評価)があるというステイタスであろう。それは勲章をありがたがるのと同じくらい実体がないし、バカげてもいる。だが、人はそのようなバカげた権威をどうしたって必要とするのだし、そのようなバカげた作用によって制度としてのアートは存続しているというのは、誤摩化しようのない事実であろう。
美術史によって保証されるメジャーな(最先端の)「形式」というものがあり得なくなり、形式が作家の(作家としての)「存在」を支えられなくなり、形式は常に相対的で任意なものとなったため、「現代アート」の権威づけはいまや、ただその「値段」のみによって保証されると言ってもよい。勲章が、その工芸品としての見事な出来映えによって価値があるのではなく、勲章の後ろ盾となる権威によって価値があるのと同様、アート作品は、その作品としての強度や密度によって価値があるのではなく、(主に価格によって表現される)アートという制度の権威によって価値がある。(まさに虎の威を借る狐であり、しかももはやその虎は張り子の虎である。)美術史によって保証されるようなメジャーな「象徴的形式」が成立しなくなったため、マイノリティであり、なにものでもない人々であるような人の、とるに足らないとされていた「等身大の私たちのささやかな日常」の「ささやかな価値」を表現したような作品が可能になったのだ、という言説が最近あるけど、でもそれは、そのような「ささやかな(弱い)価値」が、それ自体の強さ(あるいは弱さ)そのものによって肯定されているわけではなく、アートという「権威」の後ろ盾(虎の威)のなかで成立しているのだ、という点に対してあまりにも無自覚であることに驚いてしまう。それは、大きな組織のなかにいる人がしばしば、その組織の力(あるいはコネクションの力)を自分の力だと勘違いしてしまいがちだということに似ている。(作品が弱いものであればあるほど、その「権威」への依存度が大きくなる。)
●だが、美術作品が「高い」というのは、それだけが理由なわけではない。例えば絵画は基本的に一点もので、その作品はその一点しか存在しない。(似たような見栄えのものを再度作ることは可能だが、それはもはや「作品」ではない。)一点しかない作品を一点いくらで売るのだから、それはそれなりの値段がつかなければ、作家も画商も生活できない。(コレクターは転売して儲けることができるかもしれないが、作家は自分のもとにある一点の作品を「一回」しか売ることができない。本を増刷するように、人気の作品やマスターピースだからといって増刷することはできない。印税もない。)ヨーロッパから作品を持って来て、時には作家も呼んで、都心の家賃の高いスペースに長期間展示し、その間常駐のスタッフもつけて、という画廊の都合も考えれば、値段はさらに上乗せせざるを得ない。(これは一点もののオーラとかいう話ではなく、たんに物理的に一点しかないという条件の話だ。)
付け加えれば、「作品」はやはり作家がその「存在」を賭けてつくるものであるから、それをそうそう簡単に、かわいい雑貨や小物を買うように、買われ(消費され)てもらっては困る、という側面もある。そのような意味で芸術はある程度は敷居の高いものであり、それを観る(それに触れる)人に、「本気」であることを要求してしまうのは仕方が無い。例えばそれは、職人が丹精込めてつくった手作りの家具と、工場で大量生産される家具とは、異なる扱いが要求されるのは当然でしょう、というごく素朴なことなのだが。(勿論、「私はそんな丹精込めてつくられた家具みたいな鬱陶しいものは必要としない」という態度もありなのだけど。)しかし、手作りの家具みたいに、長い間、時には何世代にも渡って使えるというようなものとは違って、アートには使用価値がない。そんなものを(権威とは無関係のところで)高い金を出して買ってくれという方が土台無理な話で、お金の余っている、よっぱど変わった人が、面白そうなことをやってる奴がいるから支援しようか、ということにでもならなければ、そうそう売れるということはないだろう。
だからどうしても、アートにはその「お客さん」をお金持ちに限定してしまうという傾向が、必然的につきまとう。その事実が、自らの首を絞めていることがあきらかだとしても。
●例えば最近の若い作家などでは、芸術の敷居を下げて、手作り家具ではなく手作りパンくらいのところで生産性を確保して、それをより多くの(といっても手作りパン程度のささやかなものではあるが)人々とシェアしたいという感覚がひろくあるように思われる。それはそれで(虎の威を借るものでなければ)とても好ましいことだと思われる。ただ、ぼく自身としてはそれでは満足出来なくて、どうしても、もっと濃く、強く、密度のあるものを求めてしまうのだが。