『彗星まち(獣たちの性宴 イクときいっしょ)』(今岡信治)

●『彗星まち(獣たちの性宴 イクときいっしょ)』(今岡信治)をDVDで。95年製作の今岡信治(いまおかしんじ)のデビュー作。九十年代に、映画の好きな青年が、大学の映研とかではじめて自分の映画をつくるとしたら、多分だいたいこんな感じで撮るだろうなあ、という映画。ぼくも、九十年代に映画を撮る機会にめぐまれていたとしたら、多分こんな風に撮ったと思う。(これ程のものができるかどうかはまた別の話。)そういう意味ですごく「好き」だけど、突出しているという感じはしない。そして、すこし恥ずかしい。その「恥ずかしい」という感触は、撮り方もそうだけど、題材や物語が、あまりにも素直に九十年代的感性を反映しちゃっているので、今観るとちょっと「うわーっ」という感じになる、ということだ。この感じは、『デメキング(「痴漢電車 弁天のお尻」または「いかせたい女 彩られた柔肌」も同じ映画)』にも同じく感じられる。九十年代の今岡信治は、あくまで「ピンク映画」という枠のなかで(枠に守られて)面白いことをやっている人という感じで、それに比べると最近の三作(『たまもの』『かえるのうた』『おじさん天国』)はそんな「枠」など関係なく良い作品で、それはもの凄い飛躍だと思う。
●初期の作品も最近の三作も、登場人物たちはなにもしないで(水平的的関係を)だらだら生きているという点では共通している。しかし、初期作品では、そのような生そのものやそれを強いる環境に対する(ある意味、幼稚な形での)倦怠や苛立ちや不安をはっきりと表出しており、そこから逃れる(抽象的、非世界的な)希望として、彗星やデメキングなどといった(垂直的)形象が召還されている。そのような意味で、典型的、伝統的な青春ものの範疇にあると言える。しかし最近の作品では、登場人物たちはそのような生を(少なくとも表面上では)抵抗なく受け入れているようにみえる。(それに対応して、いかにも「映画的」であることを見せつけるような極端な長回しなどの手法は抑制されている。)だが、表面上は波風のたたない平穏な(ゆるい)世界であるがゆえに、それに対する不満は巧みに隠蔽され、それが表現される出口が塞がれている。そこでは、苛立や不安、あるいは「ここではないどこか」への指向は、初期作品のような「彼方」のものとして形象化されるのではなく、平穏に流れている日常的な世界の裏側に、ぴったりと貼り付いたものとしてある。『たまもの』のボーリングの玉男や『おじさん天国』の夢の女やダイオオイカは、彗星やデメキングのように、どこか遠くにあって、その到来が期待されるものではなく、ただそれが「見えていない」というだけで、いま、ここのすぐ真裏に常にあって、いま、ここと同居し、それを支えもし、その存立を脅かしもしているものだ。そして登場人物たちは、その気配をはっきり自覚している。(だからそれは『彗星まち』の川原の死体に近い。)あるいは、『彗星まち』や『デメキング』では、幸福な「夢」としてしか実現しなかった「希望」が、『かえるのうた』では、ラストで嘘のような唐突さで実現してしまう。しかしこの「(幸福な)実現」は、淡々と流れる冴えない日常の時間と同じ平面にあるのではなく、やはり、その裏側に裏地としてあって表を支えるようなものだと思われる。つまりこの幸福なラストは、作品の(時間的な)最後にあるというのではなく、『かえるのうた』のどの場面、どの瞬間の裏側にも、常に貼り付いてあったものが、ラストに露呈したということだろう。このような、作品世界の表面を支えている「ここではないどこか(への指向性)」の、作品内での構造的位置づけの変化が、初期作品に比べ、最近の作品が格段に説得力を増している原因になっているように思われる。