『ブルーベルべット』『On the Air』(デヴッド・リンチ)

●『ブルーベルべット』(デヴッド・リンチ)をDVDで、久々に観直した。リンチの映画は基本的に濃厚な徴候によって支配されていて、そこにあらわれるいくつもの徴候や予感が、これから起こる事件の徴候なのか、既に起こってしまった事件の余韻なのか、それとも、いま起こりつつある事件から防衛的に目を背けるためにつくりだされた幻なのかが判然としないため、時間や空間の秩序が(そして自同律まで)失われてしまう。(だが、この映画ではまだ、時間と空間の秩序は完全には失われてはいなくて、事件は因果律に沿って説明可能であるのだが。)しかしそれだけでなく、リンチにとって世界は表と裏の両面があり、それが不安定に(つまり一定の法則性をみつけられないまま)簡単に反転してしまうのだなあと、この映画を観て改めて思った。『ブルーベルベット』で重要なのは、陽光輝くのどかなアメリカの田舎の光景と、暴力が支配する闇の側面とのコントラストというよりは、それらがたやすく(安定感なく)くるくると反転してしまうというところにあるように思われる。つまりリンチにとっては、石が常に石であり、私が常に私であり、大地が常に大地でありつづけるような、(そこに寄りかかり、足を踏ん張ることのできる)安定した基盤としての世界が成り立っていないのだと思う。そこでリンチが手がかりとできるものは、いくつかのテクスチャーや手触りや匂いのみ、ということになるのだろう。(世界がくるっと反転する瞬間は『イレイザーヘッド』にも既にみられるし、最近の『ロスト・ハイウェイ』や『マルホランド・ドライブ』になると、世界の反転は『ブルーベルべット』のような単純なものではなく、もっと複雑化して、作品の構造のなかに深く織り込まれる。)そしてその反転をうながすものは、多くの場合、世界の表と裏の隙間から(神のお告げのように、世界の法則そのもののように、絶対的な権力として)響いてくる、甘美で人工的(機械的)なアメリカンポップスの調べなのだった。
●リンチ+フロストが『ツイン・ピークス』に続いて製作したテレビシリーズに『On the Air』という作品があって、これは五十年代のテレビ界を題材にしたコメディなのだが、これを観ると、リンチにとっていかに「アメリカが最も豊かだった時代」のテレビのバラエティーショーがトラウマのように強く作用しているのかが感じられる。(つくづく、リンチはアメリカ的な作家なのだと思う。)作品としては、過剰なほどの躁的なコメディーで、コメディーとしてはコテコテで野暮ったいというか、ほとんど下品と言うべきで、あまりセンスの良いものとも思えないのだが、これこそがリンチの「地」に一番近いものじゃないかとすら思われる細部に満ちている。リンチの映画で、世界の亀裂から、世界の反転をうながすように響いて来る甘美な音楽の響きに「含まれている」ものは、実はこういうものなのじゃないか、とすら思う。『マルホランド・ドライブ』がハリウッド物である理由も、すんなり納得出来る。(『マルホランド・ドライブ』で、小ちゃくなったおじいさんとおばあさんが出て来るシーンで、『On the Air』的な感覚の一端が伺える。)『ツイン・ピークス』のDVDについている予告を観ると、リンチは新作もハリウッド物みたいだけど、コメディではないみたいだ。いつか、観ている方が恥ずかしくてどうしたら良いか分らなくなってしまうような、コテコテの躁的なコメディを、映画でも是非やって欲しいと思うのだった。