「識別不可能性の大地」(平倉圭)

●「思想」(2007.7)に載っている「識別不可能性の大地」(平倉圭)というドゥルーズの『シネマ2』についての書評を読んだ。というのも、今、三回目くらいに『シネマ2』を読み返しているところで(6章まで読んだ)、ぼくにとってこの本は、なんど読んでもいまひとつ面白くならないというか、納得出来ない本なのだった。勿論、細かいところで面白いことはたくさん書いてあるのだけど、全体としては、どうも納得がいかない。で、『シネマ2』について書かれたいろいろなテキストなどを読んでみても、これは本当に今ぼくが読んでいる本と同じ本について書かれているものなのだろうか、と思ってしまうものが多かった。だが、この平倉圭氏のテキストははじめて、ぼくが『シネマ2』を読みながらもやもやと感じていたことについて、すっきりとした見通しを与えてくれるものだった。すごく面白くて、目から鱗っていう感じだ。
平倉氏も引用しているのだが、『シネマ2』の5章でレネの『去年マリエンバードで』について論じつつ、ドゥルーズは自らの「書くこと」についても記述している。
《(...)われわれは様々な年代の諸断片から一つの連続体を構成する。二つの層の間で行われる諸変換を利用して、一つの変換の層を構成する。たとえば夢においては、特定の層の個別的な点を顕在化させる回想イメージはもはやなく、それぞれが異なった層の一点にかかわることで、たがいに顕在化しあうもろもろのイメージがある。われわれが本を読んだり芝居を観たり絵画を眺めたりするとき、ましてやわれわれ自身が作者であるとき、似たようなプロセスが起動する。われわれは一つの変換の層を構成するのだが、それは複数の層の間に一種の横断的連続性あるいは交通を作り出し、局限不可能な諸関係の集合をつくりあげるのである。このようにして、われわれは非時系列的な時間を解放する。》
ベルクソン-ドゥルーズによれば知覚は常に回想と結びついて現働化される。つまり知覚-現在は、それを裏から支える記憶(回想)-過去と一体となることによってはじめて有用なものとして決像される。(今、見えている赤くて丸いものは、かつて食べて美味しかった赤い丸いもの-林檎と同じものだ、という風に。)知覚と有効な関係をもち得る記憶は純粋過去のなかに没入することで探り出される。だが、純粋過去のなかで探された回想イメージが知覚との結びつきを一旦うしなって制御不能になり、横滑り的に様々な潜在的イメージと勝手に結びついては移り行くことがある。そしてそれらが、再び知覚イメージと回想イメージとの本来的な分身性によって知覚と結びつき、現働化されてくる。この時、どちらが潜在的イメージ(過去)でどちらが現働的イメージ(現在)か識別することが不可能な形でイメージがあらわれる。というかそもそも「現在」という基準そのものを見失ってしまうようなイメージの連鎖があらわれる。そこであらわれるのが(現在-運動による制御から完全に切り離された)「非時系列的な時間(時間そのもの)」を示すイメージである。このような時間の感触に触れることが作品に触れることであり、そして、その?時間そのもの」から何がしかの「諸関係」を掴み出して現働化させることが作品を「つくる(書く)」ことである、と。これはまさにその通りであるようにぼくには思われる。しかしこれは平倉氏も書くように《すべての過去の諸層がコントロール不可能な回想の横滑りを引き起こすという「危機」》でもあって、もしそこに完全に埋没してしまえばわれわれから「現在」が完全に失われ(現在との関係が断ち切られ)、つまり「死」が訪れるしかない。(そのような死の場所をドゥルーズは「大地」または「海」と呼ぶ。)だから本当なら、われわれは一方でその「大地」に触れつつ、もう一方の側を「こちら側」に(現働化された現在としての身体として)残しておかなければならない。大地に呑み込まれてしまえば、われわれは作品に触れることも、それをつくることも、と言うかそもそも生きることが不可能になる。だから『シネマ2』という本は、どのように大地に触れ、そのなかに入り込むのかということと、どのようにしてそこに埋没せずに離脱出来るのかという、二つの運動(力)のギリギリのせめぎ合いのなかにある。
映画はまさに「(現働化された)現実を写す」ものであることによって、現在という重力(時系列的時間)から完全に自由になることはなく、そのことが「大地」へと埋没してしまうことへのギリギリの抵抗と成り得る(外れた「たが」を制御するギリギリの、伸縮する留め金になり得る)、と。ドゥルーズが「この世界を信じる」と言う時の「この世界」とは、大地(非時系列的時間)でも重力(時系列的時間)でもなく、大地の中からのほんのなけなしのジャンプの時(中空の高さ)にだけあらわれるものだろう。われわれが、大地に触れつつも、そこへと埋没してしまわないのは、今、映画を観ている身体が、今、何かを書いている身体が、あくまで時系列的な現在に捕われているからではないだろうか。それはわれわれが、個別的、限定的な身体としてこの世界のなかに(時系列的な時間のなかに)捕われてあるということだ。つまり、われわれがこの時系列的な世界にいる以上は、決して「運動イメージ」からは完全に自由になれないということなのではないだろうか。そして、われわれが「こちら側」で生存しつづけるには、生命を維持するための最低限の能動的運動性を確保するための(つまり身体を「一つのもの」として制御するための)「抑圧」という機能がどうしても必要となるのではないだろうか。しかしドゥルーズはそれを(主体をめぐる精神分析を)決して認めないだろう。ドゥルーズにとっては身体を信じることもまた《「敷石」の間から、「ミイラの包帯」から、生え出る草を信じること》というような、非人称的な出来事であろう。しかしだとしたらどうやって(あるいはどのような理由によって)、ドゥルーズ(という身体)はこんなに多くの映画を観続けることが出来、それをこんなにも見事に想起し、纏め上げ、それを「書く」ことを制御(することを欲することが)できるのだろうか。ぼくのこの本への不信は、ドゥルーズがこのような点を誤摩化している(というか強弁で突っ切っている)ようにも読めてしまうところにあるのかもしれない。(ドゥルーズによる、この、時間をめぐるめくるめく映画の想起からこぼれ落ちてしまっているのは、きわめて素朴な意味での、一つ一つショットに内在する現実的な「時間」であるように思える。)
●ところで、われわれの現働化する現在としてある身体がアクチュアルな「現在」との関係を失って純粋過去(大地-海)のなかに呑み込まれてしまうという意味での「死」と、現働化する現在としての身体が、たんに唯物的に機能停止してしまうという意味での「死」は、同じものだと言えるのだろうか。
●平倉氏はもうひとつ、『シネマ2』の記述を支えている詐術とでも言えるものを指摘している。(平倉氏が「詐術」と言っているわけではない。念のために書くが、平倉氏の書評そのものは、決して『シネマ2』に対して否定的なものではない。)引用する。
《(『吸血鬼』『蜘蛛巣城』『マクベス』『戦艦ポチョムキン』における)視覚的「イメージ」のレベルではほとんど識別できないはずのそれらの「霧」のあいだを、ドゥルーズの論述は崩壊することなく高速で横断してゆく。なぜか。そこには「名前」があり、「名前」しかないからだ。
ドゥルーズの『シネマ』は、膨大な「固有名」からなり、そして一切の「写真図版」を欠く書物である。名前で呼ばれているかぎり、すべてのイメージは権利上、他のあらゆるイメージから区別される(ジェリー・ルイスに捧げられた数頁(八九-九一ページ)における作品名の連呼は圧倒的だ)。
だが「名前」が呼びかける純粋回想の地帯において、諸々のイメージは、崩壊的なイメージを絶えず引き起こすだろう。『底抜けいいカモ』という一つの「名前」に対して、無数の「まちがった」イメージたちが想起されてしまうことを止めるものは何もない。ページの下には、つねにひとつの〈大地-海〉がひかえているのだ。》
この点が、平倉氏が指摘するドゥルーズの「ゴダールへの裏切り」に繋がる。ここでも、イメージがそれ自身で(名前-言語抜きで)「大地」から離脱(飛翔)出来るのか、それをドゥルーズは本当に信じているのか、というとても重要な問題と絡んで来る。(ぶっちゃけ、イメージが運動と切り離されたら、やっぱ名前-言語に頼るしかなくなっちゃうんじゃないだろうか。『シネマ2』は、イメージと言語との関係という点において、弱点があるのかも。)