『おじさん天国』(いまおかしんじ)、つづき

(昨日の補足)
●『おじさん天国』(いまおかしんじ)で、おじさんは、セックスで感極まりそうになると、相手の女性の身体に赤いマジックペンで自分の名前を書き込む。昨日も書いたが、このおじさんは死の国から戻ってきたかのような、半ば幽霊のような存在であるから、この書き込みは、幽霊がこの世界に刻む刻印のようなものだろう。
『おじさん天国』の世界は、摩擦や緊張をできる限り低い値に抑えることで成り立っている。冒頭、主人公の青年と一緒にいる女性は、いちおう公式的には、主人公が勤める会社(久米水産)の先輩社員の彼女ということになっているらしい。つまりここには明確な三角関係があるのだが、それはこの映画にきわだった緊張をはらませはしない。そしてこの先輩社員は、あっけない唐突な死を迎えるのだが、この死が主人公と女の子の関係に何かしらの陰を落とすこともない。さらにこの女の子は、ふらっとあらわれたおじさんとも関係を持ち、「名前の書き込み」によって。それは主人公にもバレてしまうのだが、そのことで、主人公と女の子、主人公とおじさんの間に、何かしらの緊張や摩擦が生じるわけでもない。(女の子が「マーくん超怒ってた」とおじさんに言うくらいのものだ、)登場人物たちは必要以上の強い望みや欲望を持つことは無く、しかしことさら欲望を抑制することもなく、世界は(重たい「愛」に至ることのない)軽い「愛着」のようなものに包まれ、常に「低値安定」が保たれている。(淡々とした、しかし丁寧な性交の描写の連続が、低値安定の調子とリズムと気分とをかたちづくっている。)だが、主人公が「ダイオオイカ」を釣ることを夢見ているというような、軽い超越性の作用が、人物たちがかならずしもそのような環境に完全に満足し切っているわけではないことを示してもいる。
そのような世界に「おじさん」が持ち込んでくるのが「悪夢」の強度であろう。おじさんは実際には何もしないでただぶらぶらしているだけの人で、この世界のなかでもとりわけ「低い値」で生きている人であろう。しかし同時に、おじさんはこの映画の世界の人々なかで唯一、「悪夢から逃げる(ために「眠らない」)」という切実な動機をもって行為を行っている人でもある。つまりこのおじさんの存在は、この「低値安定」の世界が、決してエネルギーの低さ、ポテンシャルの低さによってそうであるのではなく、「悪夢の強度」に対する必死の抵抗の形式としてあることを示しているのだ。おじさんの「悪夢」そのものは、この映画では描かれることはない。(唯一、マスターベーションしながら神社へ向かって歩くおじさんの描写が、悪夢の感触の一端を示している。だが、「地獄」の描写は、そのような強度をもたない。)「悪夢の強度(ぶっちゃけそれは「死の恐怖」なのだろうが)」は、あくまでこの映画の外側にあり、しかし裏側にぴったりと貼り付いているのだ。おじさんが女性の身体に書き込む「高山たかし」という赤い文字は、この映画の外側にあって、この映画の調子そのものを基底として支えている「悪夢の強度」の刻印として、この映画の表面、皮膚の表面に浮かび上がって来るもののように思える。