●暗い夜道(といっても七時前くらいだけど)でいきなり呼び止められ、みかんを売りつけられた。普通、予期しないようなその状況そのものが面白くて、高かったけど買ってしまった。べつにカツアゲされたというわけではない(と思う)。
茶店で本の再校ゲラをチェックしていて、一度部屋に戻って軽く何か食べてから出直そうと思ってアパートへの道(住宅街で、蛍光灯もまばらで薄暗く、人通りもあまりない)を歩いていた。大きな段ボール箱を抱えた小柄な女性が道を横切ろうとしていたので、先に通そうと思って立ち止まったら、横切るのではなく、こちらへ向かって来ているようだった。「お兄さん、お兄さん」「はい?」「こんなところでいきなりあやしいと思うんだけど、みかん買わない」「は?」「このあたりでもすごい評判の、めちゃめちゃ甘いみかんがあるんだけど」「…」「いや、わたし、立川で果物屋やってるんだけど」女性は大きな段ボール箱と、その上にもう一つそれよりちょっと小さめの段ボール箱を重ねて持っていて、重そうだからいったん下ろせばいいのにと思いながらも、この唐突な言葉に、相手が何を言いたいのかよく理解できていなかった。「長崎でつくってるみかんで、もうほんとにおいしくて、騙されたと思って食べてみてよ」女性は箱を抱えたまま、片手で小さな箱からみかんの入った袋を取り出した。つまり、重そうな段ボール箱二つを片手で抱えているのだった。「ほんとにめちゃくちゃ甘いから、信じられないくらい甘いから」袋のなかにはこぶりのみかんが十個くらい入っている。「食べたらぜったいびっくりするから」周囲には人通りもなく、駐車されている車もなく、つまり、軽トラックとかで荷物を運んで行商しているということでもないみたいだった。「お兄さんにはぜひ食べてほしいなあ、驚くよ」最初はありえない状況にとまどっていたけど、だんだんこの状況自体が面白くなってきていた。段ボール箱は依然として抱えられたままだ。「いくらなんですか?」「うーんとね、これ普段七百五十円で売ってるものなんだけど、特別にワンコインでいいや、五百円、あ、でも消費税五十円だけちょうだいね」この小さなみかん十個くらいが五百円って、高くないか。それに、こんな道端で得体の知れない人から食べ物を買って、それは本当に食べてもいいと信用出来るものなのか。ここは住宅街の細くて暗い夜道で、人が集まるような、商売に向いているような場所ではないのだ。いかにもモテない感じの男性に、若い女性を使って入信を勧誘する宗教団体、みたいなイメージがちらっと浮かぶ。しかし、今、目の前にあるのはみかんだ。暗くても濃いオレンジ色は鮮やかだ。女性は三十代前半といったところだろうか。この短い沈黙の間も、段ボールは抱えられたままだ。「うーん、じゃあぴったり五百円でいいよ、五百円」「わかりました、買います」しかしぼくは、この機会を逃したら、道ですれ違いざまにみかんを売りつけられるなどという経験をすることは一生ないかもしれないという思いの方に傾いていた。正直、みかんに五百円使うのは痛いのだが。スーパーで売っていたら絶対買わない。「あー、ありがとう、お兄さんかっこいい、で、もう一つあるんだけど、二つで千円で、どう」「いや、一つでいいです」ぼくの差し出す千円札を受け取り、ウエストポーチへしまって、中から五百円玉を取り出す。これを片手で段ボール箱を抱えつつ、もう一方の手だけで滑らかに行った。「ほんとにすっごく甘いよ、びっくりするよ」そう言いながら、女性は駅の方向へと歩いていった。
部屋に戻って早速みかんを食べてみた。これ、毒とか入ってないよなあ、と一瞬躊躇したが、とにかく食べてみた。本当に甘かった。今までぼくが食べたみかん史上でもっとも甘かった。まるでみかんじゃない別物のように甘かった。袋にはいったこぶりな十個は、すぐになくなってしまった。もう一袋買ってもよかったかなあと思った。みかんの甘さに力を与えられて、再び駅前の喫茶店へと向かうのだった。