●今年の文藝賞の人、どっかで名前をみたことがあるという気がしていたのだけど、「首吊り芸人は首を吊らない。」の人だ、とトイレのなかで気付いた。
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●お知らせ。「三田文学」2013年秋季号で、「百年後にも残る平成芥川賞作家のこの一作」という謎な感じの特集でアンケートに答えています。平成になってからの芥川賞受賞作家の作品から(受賞作に限らず)、百年後にも残るであろうと考えられる作品を三作挙げろ、というアンケートでした。このような問いかけをどう受け止めればいいのか、あるいは、そもそもこのようなアンケートには答えるべきではないのか、と悩みましたが、いろいろ考えた結果、掲載されているようなものになりました。
●昨日の日記で引用した文章を、重要だと思うのでもう一度引用する。『2045年問題』(松田卓也)より。
≪(…)アルフレッド・インセルベルクというイスラエルの研究者は、平行座標という概念を導入して、多次元の相関関係を視覚化する技法を開発しました。たとえば13次元の空間を可視化することにより、イスラエルの軍用トラックの音を大量に集めて解析すると、エンジンにロシア製の部品が使われているというようなことがわかるそうです。≫
例えば、様々な≪イスラエルの軍用トラックの音≫をモチーフに、≪13次元の空間を可視化する≫というやり方で制作を行った作品をつくるとする。すると、その作品を観た人の内部になぜか≪ロシア製の部品≫という感覚が生起するようなものになった、とする。その時、制作者においても観客においても、トラックの音とロシア製の部品の間の繋がりは意識的には追うことができない。制作者は、「ロシア製の部品」を表現するために制作したのではなく、それは制作=演算の複雑な過程(その過程もまた、すべて意識化されているのではない)の結果として得られた一つの解である。制作は、その過程や行為そのものが他とは代替できない一つの演算の方法である。そのような形で「経験」を制作するものとしての作品。
●『境界の彼方』の二話を観たのだけど、作品として面白いかどうかはともかく(じわじわ面白くなってきそうな気配はある)、その「絵のうまさ」はかなりのものではないだろうか。これはたんに作画だけのことではなく、デジタル処理なども含めた総合的なことなのだと思う。京アニの絵のうまさは他と比べてもちょっと飛びぬけているように見える。動いたり、角度が変わったりしてもプロポーションが崩れないし、フォルムも線もきれいだし、手の表現とかもしっかりしている。でも、いつからこんなに「絵がうまく」なったのだろうか。例えば、「ハルヒ」の頃は(デジタル的な技術の進化とかがあるから単純は比べられないとしても)作画のレベルで特にそんなにうまいという感じではなかったと思うのだけど。演出も、「ハルヒ」の頃よりもずっとかっこよくなっている。