●『レインボーズ・エンド』(ヴァーナー・ヴィンチ)。
(6日の日記のつづき)下巻に入ると普通の娯楽小説みたいになって、えーっ、と思った。「いい話」というのは人間の感情を強く持っていってしまうから、そっちにいくと様々な要素たちがみんなそういう風な方向に均されてしまう。最後まで読むと、頑固なジジイが少年少女たちとの交流によっていい人になってめでたしめでたし+老人たちの大冒険、みたいな読後感になってしまって、でも、そういう風に読んでしまうとこの小説の面白いところがほとんどすべて抜け落ちてしまうように思った。チャーミングなお婆ちゃんたちのキャラとか、とても魅力的でいいのだけど、でも、これってそういうことがやりたい小説だったの?と疑問に思ってしまった。話の背景にあるもの(世界観)のリアルさこそが重要なのだと思うし、その「背景にあるもののリアルさ」は、そんなに簡単に「いい話」は成立しないということを強く表現していると思うのだけど。「いい話」の成立が難しい世界で、それでもなんとか無理をして「いい話」を成立させようとする、というのなら分かるのだけど、「小説として読めるものにするために」なんとなく「いい話」という型を使った、という風に感じられてしまった。
(重要なのは世代間や立場の対立を越えて起こる相互変化だ、というところは納得できるのだけど。)
だいたい、あんなにもシビアな(あるいは悪意に満ちたとも言える)問題提起をしておいて、こんなに「きれい事」の落としどころで納得しろというのか、という気持ちになってしまう。いや、もしかしたら、悪意はあくまで裏に隠しておいて表面的にはきれい事として落としてみせることこそが「悪意」だ、ということなのかもしれないけど。実際、すごく嫌な奴だった「偉大な詩人」が、とてもいい人である「凡庸な技術者」になってめでたしめでたしという話で、全体として「文芸」というものがほとんど意味を持たなくなった世界を、小説という形で書いているという時点でかなり捻じれているとは言えるけど。
でも、もしかするとぼくの読み方の方が問題なのかもしれない。「いい話」が出てくるとぼくなどはどうしても、世界観は背景になって、「いい話」という前景(図)が描かれているという風に読んでしまうのだけど、作家からしたらはじめから物語や人間には大して興味がなくて、世界観こそが書きたいことで、「いい話」はそれを読めるようなものにするための方便というくらいしか考えていないのかもしれない。「いい話」に落としこんでしまうのは後退だ、と思うのは、そう感じる(「いい話」の方に過剰に引っかかってしまう)ぼく自身の神経症の表現でしかないのかもしれない。「いい話」などに引っかからずに「世界観」の方を読み取ればいいのではないか。作家としては、だって職業作家だし、本がある程度売れてくれないと困るし、それには「読める」ように書かないと…、ということだし、「いい話」の方には、はじめから大した思い入れがないから、それは技術の問題として処理されるものでしかない、ということなのかもしれない。
例えば、ストロスの『アッチェレランド』では、物語の面白さとかキャラの魅力とかは、はじめからほとんど問題にされていなくて、ただ、ある主題があって、その主題に関してアイデアをどこまで濃縮し、発展させてゆくことが出来るのかということだけが問題にされていて、だからすごく読み難くて、読むのが大変で疲れてしまうのだけど、しかしだからこそ面白さが純粋状態で凝縮されていて、未知の領域に連れてゆかれるような小説として力があるように思われるのだけど、もしかしたらヴィンチには、そのような意味での小説としての力にははじめから興味がないのかもしれない。
いや、でもそうはいっても、この小説の前半に示された様々な可能性を、後半の「物語として面白い展開」が押し流して、それ以上発展するのを妨げてしまっているという事実にはかわりはないように思う。もう一歩先、二歩先を見せて欲しかったけど、そういう方向には行かなくて、ぼくにとっては残念だった、と。
●物語というのは、物事を理解し納得するための一つの重要な形式だと思うのだけど、でも、どうもぼくには、「物語」という形式によっては決して理解できないものの重要性は無視できないものとしてあって、物語ではまったく足りないという気持ちが苛立ちのように強くあるようなのだ(それは、昔流行った、物語‐制度批判みたいなものとは違う)。勿論、物語が一つの解釈でありフィクションであるのと同様に、世界観もまた解釈でありフィクションであるのだけど、物語が線、あるいは複数の線としてせいぜい三次元であるとすれば、世界観はもっと多次元的なフィクション(フィクションであるからには、それはたんに多次元的な演算であるだけでなく、ある形での表象---多次元化された表象---をもつ必要がある---そうでなければ「人間」には捉えられない---のだけど)であり得るのではないか。そして、ヴィンジの小説には(主に先進的なテクノロジーを描写することによってもたらされる)多次元的なヴィジョンが確かにあるように思われるのだけど、物語が強く出過ぎると、それが見えづらくなってしまうというところが不満なのかもしれない。だから、見えづらくてもそれを見ればいいのだ、とも言える。
●あまり関係ないかもしれないけど、以下は『2045年問題』(松田卓也)からの引用。以下の引用でコンピュータがやっているようなことを、人間の感覚として実現できないだろうか、とかいうことをどうしても考えてしまう。
≪(…)アルフレッド・インセルベルクというイスラエルの研究者は、平行座標という概念を導入して、多次元の相関関係を視覚化する技法を開発しました。たとえば13次元の空間を可視化することにより、イスラエルの軍用トラックの音を大量に集めて解析すると、エンジンにロシア製の部品が使われているというようなことがわかるそうです。≫
●この週末からの連休に、坂本一成「代田の町屋」見学会があるみたいです。
http://hhtrust.jp/activities.html
代田の町屋について(偽日記)
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20130506