●府中市美術館に、利部志穂の公開制作を観に行く。二度目。先週はまだ荷物を整理している感じだったのだが、今日は、かなり作品っぽい感じになっていた。この美術館の公開制作室の裏側には小さな倉庫(というより物置)があって、その倉庫には美術館の外へと開く扉があるのだが、公開制作室と倉庫の扉と、倉庫と外との扉が両方開いていて、制作室と外との空間が繋がるようになっていたのがとてもよかった。作品は、制作室前の廊下にもせり出している。利部さんの作品は、開放系でもあり、循環系でもあり、同時に、どんどん細部へと埋没してもゆける集中系であって、どのような観方をしてもそれに応える十分な複雑さとユニークさがあり、しかも一つの観方をしているうちに自然に別の観方へと移行してゆくようになっていて、ぼくの知っている限り、このようなインスタレーションをつくる人は他にいない。
一時間半近く観ていたのだが、これがこれからどのような作品へと展開してゆくのかと、いろいろ想像しながら観ているととても面白かった。それにしても利部さんの行動は予想がつかなくて、何かやっていると思うと途中でやめて、それを放置したまま、いきなりまったく別のことをはじめる。きわめて散漫な感じなのだが、見ている途中に、それらのばらけたものたちがすっと関係づけられ、作品の空間が大きく動く瞬間が一度あって、おお、と驚き、利部さんはこうやって空間を動かしてゆくのか、と、その感触の一端にちょっとだけ触れられたような気がした。昨日の日記に書いた『マルメロの陽光』もそうだけど、人が作品をつくっているところを見るのはとても面白いし刺激される。勿論、それをやっている人の頭のなかでどのような出来事が起き、どのように動いているのかを、外から見ることは出来ないのだが、それは、自分が制作している時に頭のなかで起こっている過程も、自分で(意識的に)知ることは出来ないのだから、同じと言えば同じで、むしろ、人の制作は、外から引いて見られる分、分かり易いとも言えて、だから実は、人の制作を見ながら、人の頭のなかの過程と同時に、実は自分の制作過程を、あるいは自分の頭の中を、見ようとしている、探っている、という側面もあるのかもしれないとも思った。
(http://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/kokai/kokaikanren/kagabu_process/index.html)。
●府中から新宿へ。制作(費)のため、ずっと本を買うのを禁欲していたのだが、たまっていた分、本屋に行ったら散在してしまった。河本英夫、平倉圭、檜垣立哉、そして小島信夫。とはいえ、部屋に戻って冷静になってみると、「新刊」という「現在」に拘束され過ぎてるよなあ、と、ちょっと反省する。
●電車のなかではずっとルゴーネスを読んでいた。