2021-08-11

東工大の講義のカフカ回で、どの作品を取り上げるのかがまだ決められなくて悩んでいる。

おそらく、カフカの面白さにはごく大雑把に分けて次の二つの方向がある。一つは、具体的でスラップスティックな出来事とその意外な展開の面白さ。もう一つは、飛翔も着地もせず宙づりのまま延々つづく、ねちっこい思弁的ロジックのアクロバット的展開の面白さ。前者は、わりと分かりやすいように思えるが、後者の「面白さ」を伝えるのは難しいように思う。たとえば、『変身』がわりと読まれているのは(その分量のちょうど良さも勿論あるだろうが)、前者のスラップスティック的要素が強く出ているからで、対して、『城』の通読が困難なのは(膨大な分量のためということが勿論大きいのだが)、後者のねちっこい思弁がたっぷり含まれているからではないかと思う。

『城』では、ねちっこい思弁が延々とつづけられ、読者はそれにねちっこく食らいついていく必要があるのだが、多くの人がそれについて行けずに眠くなるのではないか。カフカの小説では、迷宮が小説の構造として形作られているというより、延々と続く思弁を読むという経験が、そのまま迷宮を彷徨う経験とパラレルになっている感じだろう。読者は迷宮を見るのではなく、迷宮に入る。

カフカ・セレクション』に収録されている短篇(断片)では、「村での誘惑」(未完)などは典型的にスラップスティック系で、(定型的な物語や人物への感情移入、意味や意図などを過剰に求めさえしなければ)ふつうに面白く読めるのではないか。だけど、「歌姫ヨゼフィーネ、あるいは鼠の族」などは、いかにも意味ありげな話だからこそ難しい。あたかもAであるようにみえるかもしれないが、実はBという側面が強く、それは言い換えればCということでもあり…、というように、意味ありげなエピソードや解釈が提示されては、否定されたり、別の側面が強調されたり、そうかと思うとまたAに戻ったりして、「意味ありげ」の提示と「ありげ」の解体とが渾然としてある。特定の意味(解決)に簡単に飛びつけない。提示と解体、言い換えや視点の転換などが並べられていくうちに、何を読んでいるのかを見失いそうになり、しかしその、提示と消失の間にあるギリギリの隙間がつくり出すか細い線によってアクロバティックな動きとして形態が浮かびあがる。普通の言い方では言えないことを言おうとしているから、必然的にそのようになる。だがそれを感じるためにはねちっこい読みが必要であり、それを可能にする持続する記憶と関心が必要になる。それを多くの人も求めるのは難しい。

両者がバランスよく含まれている作品はなかなかない。というか、ここで「バランスよく」の意味は「100分の授業で伝えやすそう」なので、そんなこちらの勝手な都合を作品に押しつけるのがそもそも間違っているのだ。