2021-08-12

●しつこく蒸し返すようだが、カフカ『審判』(『訴訟』)の「叔父・レーニ」の章の冒頭近くの訳について。

岩波文庫の辻ヒカルの訳では、《Kは叔父の姿を見ても、もうかなりまえに叔父が来ることを想像して驚いたときほどには驚かなかった》と、ひっかかりのある面白い文として訳されている部分が、光文社古典新訳文庫の丘沢静也の訳では、《しばらく前、叔父がやってくると知らされたときは驚いたが、今回は叔父の姿を見ても、それほど驚かなかった》と、割合と常識的な意味をもつ文として訳されている。とはいえ、やってくると知らされた時に既に驚いているのだから、姿を見ても驚かないのは当然なので、わざわざ《姿を見てもそれほど驚かなかった》と書かれるのは変だという違和感は残る。青空文庫にある原田義人の訳でも、この部分は、《彼が叔父の姿を見かけてもたいして驚かなかったのは、それよりかなり前に、叔父がやってくるという知らせを受けてすっかり驚いていたからだった》と、意味としては丘沢訳とほぼ同じものになっている(ただ、「しばらく前」という言葉は曖昧で、一ヶ月前かもしれないし、今日の午前中かもしれないのに対して、「かなり前」だと、今日の午前中ではあり得ないだろう)。さらに、うちにもう一つあった『審判』、集英社の世界文学全集の立川洋三の訳でもここは、《Kはそれを見ても、かなり以前に叔父が来るとしらされたときほど驚かなかった》となっている。こう並べると、辻ヒカルの訳が間違っているのではないかと思えてくる。

だけど、ここで叔父は、Kの訴訟のことを娘(エルナ)からの手紙で知ってやってきたのであり、叔父の口から、《今日わしは手紙を受け取って、もちろんのことすぐにとここへやって来た》(辻訳)という言葉が出ている。つまり、手紙を受け取ったその日のうちに、とるものもとりあえず、急いでやってきたということになる(叔父は常に急いでいるのだ)。ならば、Kが叔父の来訪を「かなり前」に知らされていたということはあり得ない。今日の午前中に電報か何かで来訪を知らされたという可能性はあるので、丘沢訳の「しばらく前」が辛うじて矛盾しないが、それでも、《しばらく前、叔父がやってくると知らされたときは驚いたが、今回は叔父の姿を見ても、それほど驚かなかった》の後半、《今回は叔父の姿を見ても、それほど驚かなかった》が、何を言っているのかよくわからなくなる(「今回」って何?)。

だから、いっけん突飛に感じられるとしても、《Kは叔父の姿を見ても、もうかなりまえに叔父が来ることを想像して驚いたときほどには驚かなかった》という辻訳が、この小説の内容と最も整合的な訳であると思う。Kが、一か月ほど前から叔父が来るにちがいないと確信していた、という記述も、辻訳であれば何もおかしくない(カフカがはじめから矛盾したことを書いていたのだ、という可能性はあるとしても)。

なにか、重箱の隅をつついているかのようだが、ぼくは、《Kは叔父の姿を見ても、もうかなりまえに叔父が来ることを想像して驚いたときほどには驚かなかった》というとても面白い表現が、たんなる誤訳(幻)ではなく、カフカ由来のものであってほしいと思っているのだった。誤訳によってこのような面白い表現が生まれたと考えることも、それはそれで面白いことなのだが。ただ、ぼくは辻ヒカル訳の『審判』が、日本語で書かれた小説としてとても優れていると思うので、この翻訳が正確であるからこそ、日本語として面白いのだ、ということであって欲しいと思っているのだ。