宮崎駿『ハウルの動く城』

宮崎駿ハウルの動く城』をDVDで。主要な登場人物ほぼ全ての外見が安定していないことがこの映画の「とっ散らかり」ぶりを示していて、軸になるような物語も世界観もなく、ただ次々と新しいシーンが「見せ場」として連なっているだけにみえる。しかし一方で、主要な登場人物の外見がこれほど安定していないにも関わらず、それによって誰が誰なのかの識別が混乱することはないし、展開が追えなくなることもない。つまり、基本設定そのものは単純で、キャラクターの同一性は全く揺らいではいない。むしろ、基本設定の単純さ(同一性の揺らぎのなさ)こそが、表面的な不安定さ(流動性)を可能にしている。(混乱は表面的なものに過ぎず、基底面にまで及ばない。そこが、例えばスピルバーグとは決定的に違う。)途中のハウルのセリフで、「魔法のおかげでこの城には爆弾は落ちないけど、そのかわり別のところに落ちている、魔法とはその程度のものだ」というようなものがあるが、この映画の(疑似的な)混乱や、見かけの変化のめまぐるしさは、それ自体がこの映画における「魔法」というもののあり様を表現している。つまり魔法とは「世界のあり様」を変える力などなく、その見かけを変えるだけであり、目くらましであり、スペクタクルである。そして、ここで魔法とは、ほとんど「アニメーション」そのもののことでもあるだろう。この映画の見かけの華々しさからは、アニメーションなど結局はその程度のものだというような、宮崎駿の諦めのようなものが透けてみえる気さえする。例えばこの映画の背景にある戦争は、この映画の基本的色調を決定するようなものだと思うが、その戦争の描かれ方があまりに牧歌的で、王子様の呪いが解かれるくらいのことで、簡単に終結してしまうようなもので、それに対して誰よりも宮崎氏自身が嘘っぽいと感じていることは明らかだろうと思う。
●とはいえ、ハウルという登場人物はとても色っぽくて魅力的で、宮崎駿の映画にこのような(『紅の豚』のような鬱陶しいおっさんではない)性的に魅力のある成人男性が登場することは初めてではないだろうか。(木村拓哉による声も、思ったよりは嫌な感じではない。)しかしそのおかげで、主人公の少女は(まるで貞操帯でも取り付けられるかのように)老婆にさせられてしまうのだけど。