●昨日と今日とで、ずっと原稿を書いていた。この原稿は絵画に関するエッセイ(一応「現代生活のなかの絵画」というタイトルがついている)の二回目で、一回目はもうすぐ出る雑誌に載るはず。(雑誌が出たらここでも宣伝します。)一回目は自己紹介と言うか、自分はこんな風に考え、こんなやり方で絵を描いています、みたいなことを書いたのだが、二回目からはもうちょっと突っ込んで書いてみようと思って書き始めたのだが、いくら書いても話が「絵画」へと至らない。いや、ぼくとしては、原稿に書いた全ての事柄が絵画(少なくともぽくが考えている、ぼくが制作しようとしている「絵画」)と関係があることだと思って書いているのだが、普通に読むと、これのどこが絵画についてのエッセイなの?、というような事柄ばかりを書き連ねてしまっている。もうちょっと先に行けば繋がるはずだ、あともうちょっとすれば、とか思っているうちに、ジグザクに進行する話は、とうとう終盤に至って、長々とした情景描写までが挟み込まれることになり、最後の最後で無理矢理のように「絵画」へと話が持っていかれる。これから推敲するのだけど、とりあえず一旦書き終わってみてみると、普通に雑誌に載る「エッセイ」として?こういう文章はアリなの?、というような妙なものになってしまった気がする。この原稿をすんなり受け取ってもらえるのか不安にもなってくるのだった。
●ぼくが雑誌に載るような原稿を書く時に気をつけていることがとりあえず二つあって、一つは、先が見えていない(結末が決まっていない)状態で書き始めること、もう一つは、短いものでも一気に書いてしまわない(書きながら途中で何度か必ず「中断」を挟む)こと、だ。これはぼくが絵を描く時に気にしていることと同じで、つまり、全体を事前に想定出来る一つの時間、一つの調子、一つの流れ、一つのリズム、そういうもので単一に染め上げてしまわないためなのだ。(単一の調子をもった文章の方が普通に読みやすいし、出来も良いように見えることは確かなのだが、ぼくにはそのようなものは退屈に思える。)ぼくはよく、この日記に書いた文章を原稿のなかにはめ込んだりもするのだが(これは手抜きとか枚数稼ぎとか言われても仕方ないのだが)、これもまた同様の理由からだ。しかし、そうやったからといってその「狙い」通りのものが出来るとは限らない。ぼくはよく、人の書いたものや作品などについて、形式(外枠)を気にし過ぎないで、もっと勝手に(つまり内在的な秩序のみに従って)やればいいのに、みたいなことを書いたりするのだが、自分の書いた(雑誌などに載った)ものを読むといつも、外枠に締め付けられて萎縮しているような息苦しさを感じてしまう。そのような意味では、今回の原稿はそういうな息苦しさからは、ある程度は逃れることが出来ているのかも知れない、とは思う。しかしまた、だからといってそれが「良い(面白い)」ものだとは限らないのだが。