●カフカに関する二つの引用。メモ。
●《我々は朝目覚めたときに、そこが夢の世界ではないことにすぐ気がつく。たった今まで真剣に夢を見ていたのに、夢だったのか、で済ませてしまう。たとえば夢の中でどこかへ行き着こうとして、どうしても行き着けないような夢を見ていたとすれば、いったん起きればもうそこに行くなどどうでもよくなり、それがどこだったかも気に留めない。これはいささか節操を欠いてはいないか?》
《実際、掟は、掟の信奉者を寝かしつけるものである。我々も、法律を尊重して生活しているが、それは法律によって自分の精神の一部を眠り込ませるためである。その状態は、分析用語で言えば、超自我と自我との間柄に属する。つまりそれは一つの催眠なのである。掟に従属するということは、起きていながら眠ってしまう催眠状態に自ら進んで陥るようなものなのだ。》
《そうだとすれば、どうして起きる必要があろう。いやむしろ、起きて掟の中に入ることは、裏切りであり、蒙昧である。彼(カフカ)が採った戦術は、眠り続けながら、それでも起きる事、つまり夢を見続けることであった。人が眠っているときにでも、起きていよう、見つめていようとすること、これを目覚めの倫理とするならば、また、覚醒世界の現実が実は催眠という睡眠であることを知るならば、目覚めの倫理とは、朝起きて出かけることではなく、むしろ夢から醒めずにいること、夢の覚醒の強度を保ち続けることにあると言える。》(新宮一成「カフカ、夢と昏迷の倫理」)
●《この(カフカの『城』のような)ファシズム的世界を特徴づける性格をひとことでいえば、すべてがあからさまに現前し、今、ここにあるものがこの世の全体であることを、常に主張せねばならないことへの逼迫する要求として集約される。自己を主張する主観性は廃棄されるのではなく、むしろ主観性が全面化することが称揚されることによって、それは避難所を失いつつひからびる。あるいは精神的なものが物理的なものに代わられるのでなく、精神的なものがむき出しに自己証明することを要求されて、それは物自体へと退化する。それは挫折した市民社会の死体であるというよりも、その輝きの増した果てに、なお燃えつきえぬ姿の残酷である。この、すべてに遍在するゆえに死にいたらしめられる主観と意識の剛直は、フロイトやハイデッガー以来の伝統によって、「不在スルモノノ不在」とも、あるいはスキゾフレニー=分裂症とも表現される。》
《そして今日の私たちは、それをさらに徹底的に引き受けつづける、より全面化したファシストへと、自らを任命していかねばならない。世界の隠された意味内容を殺したのが私たちの力なら、今度はその力がさらしものにされることで、その死は贖われねばならないからである。そしてその力の極みで、なおその贖うことの不可能が知られるとき、私たちに自由が返る。じっさい資本主義的文化支配のまやかしは、その生き返らぬ世界の意味を、なお売り与えると誘惑することにのみ立脚する。》
《より具体的問題としては、文化の享楽装置=文化産業やそこでの職業的文化製造者と、他方でのその消費者の間の、ますます増大しつつある能力の落差といったものを、問題にすることができるだろう。その落差が、すべてを相互に参照したがる愚かしさと、性急で単純すぎる享楽的要求を生みだしつつ、落差そのものを誘惑する意味となすからである。それを埋める戦略の一環としてのみ、教育と文化装置の、脱国家‐脱資本化が課題になりえる。それは商品の流通過程‐流通時間をより延長することで、その受容に執行猶予を与えつつ、そこでの絶対交通量を増加させ、人人に自らを肯定する力と苦痛を与えることになるだろう。ただしこの文化の民衆化は、退行的自己満足の温床ともなりやすい。その場合には、それは無類の現在的自己表出をなす最高の文化商品によって、再度破壊されつくすことになるのである。》(樫村晴香「資本主義」から「文化装置-文化支配」の項)