米澤穂信『さよなら妖精』

米澤穂信さよなら妖精』。米澤穂信をはじめて読んだのは『氷菓』で、本屋で買ってそのまま喫茶店に入って読んだのだけど、前半、イマイチな印象だったのにもかかわらず、終盤で思わず泣いてしまった。『さよなら妖精』も、後半の部分は喫茶店で読んでいて、また泣かされてしまった。しかし小説を読んで「泣く」というのはどういうことなのだろう。何冊かつづけてこの作家の小説を読んだので、この作家の小説のつくりかたやキャラクターの設定の仕方などがかなり「読めて」しまって、だから読んでいる時間の多くが、軽く退屈しているというか、いまひとつだと感じているのだけど、それでも最後まで読むと、こちらの「この程度だろう」という予測を超えるものが必ず示されて、思わぬ「厚み」が感じられて、それでジーンときてしまう、というのがこの作家の小説を読んで感じるいつもの印象なのだが、ということはつまり、「この程度だろう」と意図的に思わせておいて最後にひっくり返す、という作家の手口にはまってしまっているということなのだろうか。だけど、最後に感じられる「こちらの予想を超えるもの」は、たんなる意外などんでん返しではなくて、それまで読んできたものの積み重ねがあってこそ、そこにちょっとだけ違った視点や切り口が付加されることで起こるのだから、それをたんに「手口」とかいう言い方をするのは間違っているだろう。それにしても、個々のシーンというか、個々の細部を読んでいるときは、どうしてもそれが薄っぺらに思えてしまって、それらがある程度重なることによってようやくはじめてある「厚み」が感じられるのは、それぞれのシーンのつくり方があまりにも理にかなっていすぎるというか、理路整然とし過ぎているせいなのかも知れない。米澤穂信の小説は、世界に触れようとするときの態度が、常に理知的で生真面目で、それがこの作家の最大の美点なのだと思うけど、同時にそれが読みながら常に「物足りない感じ」を感じてしまう理由でもあるのだろう。ある意味、分りやす過ぎるというか、通俗的な小説のつくり方をしているのだけど、それでも、ぎりぎりのところで「俗」に流されない理知的な強さがあって、この小説でも、「異国からやってきた少女との接触」という、感傷的に流せばいくらでもずぶずぶに感傷的になってしまう題材を、あくまで硬質で理知的に扱っている。(余談だけど、米澤穂信を読んでいてはっきりと分るのは、いかに村上春樹が駄目かということで、米澤穂信の小説の、ライトノベルの読者を意識して惹き付ける仕掛けを仕掛けつつも、その感情をけっして感傷的なところに着地させずに、外に向かって、世界に向かって開かせようとする禁欲的な知性は徹底しているように思う。だから、米澤穂信を読んで感情がたかぶって「泣いて」しまったとしても、その感情は「泣く」ことでは決して完結しない。泣くことの心地よさに閉じてしまわない。)
●この小説は、別にユーゴスラビアで起こったことについての小説というわけではないと思う。この小説が残酷にも示しているのは、ユーゴスラビアで起こったことは、日本に住む高校生にとってはあくまでも「他所のこと」にしか過ぎないということであり、しかしそれは「他所のこと」だとしても、確実に「現実に起こったこと」なのだということなのではないだろうか。主人公の発揮する探偵的な知は、残酷な現実を「認識する」こと以外の役にはまったく立たない。主人公である守屋の感じる感情や無力感、マーヤにかわってマーヤの現実を生きることの不可能さなどは、感傷へとは着地せず、つまりこの小説世界のなかにはそれを引き受けるに足りる等価物がない。つまり「文学的」に形象化されない。だからこの感情はなにも解決されないまま、そのまま読者に投げ渡される。しかしだからといって、この小説は無力感や残酷さ、他者との埋めがたい距離のみを強調しているわけではない。(なにしろこの小説の大部分では、マーヤとの交流が具体的に描かれている。)この小説の登場人物が、古い墓を見て「過去って、本当にあったのね」とつぶやくシーンがある。作家のデビュー作である『氷菓』という小説はまさに、読者をこのようにつぶやかせるために書かれたような小説だろう。過去は現実にあったし、それは現在とつながっている。しかしその事実を「実感」するには、探偵的な知という媒介が必要だった。だけどこの小説にとって主要な問題は過去ではなく、そのような過去を実感する高校生たちの「現在」の方にある。同様に、『さよなら妖精』でも描かれているのは、「ユーゴスラビアで起こったこと」は現実に起こったことなのだということを「実感」する、日本の地方都市の高校生の有り様の方なのだと思う。マーヤという存在は、閉ざされた地方都市に住む高校生たちに世界に向けての認識の窓を開かせたが、それは同時に、自らの無力さを思い知らさせたということでもある。そしてその無力感がたんに斜に構えたニヒリスティックなもの(あるいは登場人物の「内面化」)に流れるのではなく、主人公のとっての現実はユーゴスラビアにあるのではなく(つまりマーヤにかわって、あるいはマーヤとともに、マーヤの現実を生きることは出来なくて)、あくまで今、ここにあるのだということを(きわめて残酷な仕方で)知らせるものであることが、この小説の(感傷に流されない)理性的なところだと思う。(そしてそれはマーヤと主人公の関係だけにあるのではなく、主人公と他の登場人物との関係にもみられる。この点にこの作家の「厚み」が感じられる。大刀洗や文原という登場人物のさりげない「手強さ」。)この時人は、否応なくある「強い感情」を抱えざるをえない。そしてこの感情は、生きている限り決して解消されることはないだろう。この小説はそのような感情をあまり加工しないままでこちらに投げつけて来る。
●どうでもいいことだけど、この作家の書く高校生の一人称は、いつもあまりに年寄りくさい。(この人、本当に78年生まれなのだろうか?)例えば、マーヤとの送別会のシーンで、日本酒を飲み、寿司をつまむときの主人公の内省。《ばい貝、みる貝、とり貝と続けて寿司を頂き、蜆のぬたを肴に酒を飲む。ほたて貝はあまりに俗と手をださない。》まあ、ここはわざとやっているのだろうけど。あと、この作家の書く個々のシーンはわりと退屈だ、みたいに書いたけど、この送別会のシーンは素晴ら しい。
●今日の天気(06/10/08)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/tenki1008.html