●引用、メモ。ジル・ドゥルーズ「彼は群groupeの中のひとつの星だった」(『狂人の二つの体制』)より。(ここで「彼」とは、ドゥルーズの友人であったフランソワ・シャトレのこと。)
《私は彼のある言葉、彼が入院する前に言った、まさに最後の言葉にたちどまる。その言葉はおおくのことを語っているからだ。彼は私にこう言った、「僕の病気はもう管理するのが難しくなってしまってね」と。じつにすばらしい。これはじつにすばらしいひとつの死である。じっさいここ一・二ヶ月、それは管理に困難をきたしており、自分の病を管理すること、そのことは何ごとかを意味している。それは念入りにつくられてゆくひとつの病、とはいえ日常的なものでもあるようなひとつの病である。ある観方からするならば、彼は管理する術の会得を生涯やめることがなかった。》
《フランソワはまったくもってフィッツジェラルド的な側面といったものがあり、私にとってフィッツジェラルドは存在するもっとも偉大な作家たちのうちの一人であり、また『崩壊の年月』が、およそ創造的な生とはすべて同時に自己崩壊の過程であるという考え、つまり生き生きとした過程としての疲労という主題をめぐる偉大な小説であるだけにになおさら私にはそう言えるのだ。フランソワはブランショの思考と疲労の主題に合流したのであり、そして小説とはまさしく生と自己崩壊との様々な関係をめぐる注釈なのだと言わねばならない。》
《フーコーを皮切りに、だれもが「作家」、それはひとつの機能である、と言った。つまり「作家」とは名前ではないし、究極的には唯一の機能でもなく、創造行為の領域においては作家としての機能とはまた別のものがあるということなのだが、それは少しばかり映画からやってくるような機能である。つまり製作者(プロデューサー)の機能、監督の機能、そしてその他おおくの機能があるのだ。フランソワの最後の言葉、「いやはやこの病気、管理しにくくてね」における管理すること、それはまさしくひとつの機能なのだ。》
●引用、メモ。保坂和志「われわれは生成しつつあるものを表現するための言語を持っていない」(『小説の誕生』)より。
《私は荒川修作が建築でやろうとしている生(死)の克服について、まったく直線的に論じることができないまま、いまこうしてずっと書いているわけだけれど、私がもしひじょうに明晰にそれを記述できたとして、読者はそれを理解できるだろうか。ここで言う「理解」とは、腑に落ちる---胸の底の方にぐうっと言葉が降りていってそこに定着する---ことだ。
自分の家から最寄りの駅までの道を、どうやったって間違えないと確信している感じ、そしてその道が次に歩くときにも昨日歩いたのと同じように確かにある感じ、そのように思えるような理解を、明晰な言葉で直線的に論じることで得られると思う人は、言葉と何かを理解することの関係がわかっていない。》
●引用、メモ。ジル・ドゥルーズ「フーコーと監獄」(『狂人の二つの体制』)より。
《私はいつも、フーコーにたいして膨大な尊敬をもち、たくさんの触発をうけていました。私が尊敬していただけでなく、さらに彼は私を笑わせてくれたのです。彼はほんとうに面白かったのです。私は彼とつぎのような類似点しかもっていません。働いているか、意味にならないことを語っているかです。意味のないことを語り合うことのできるひとはほとんどいないのです。誰かと何も話さずに二時間すごすというのは、友愛の頂点です。ひとがつまらないことについて話すことができるのは親しい友人と一緒のときだけなのです。(略)きっと、彼は私の仕事を読んでいましたし、私は情熱的に彼の仕事を読んでいましたが、私たちはあまり話しませんでした。悲壮感なく言うのですが、私は彼を必要としたが、彼は私を必要としていなかったのだと思います。フーコーはほんとうに謎のおおいひとでした。》
●今日の空06/10/07(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/sora1007.html)