桜金造がまた「怖い話」をはじめたみたいだ。新宿のロフト/プラス1でライブがある(http://www.enjoytokyo.jp/OD004Detail.html?EVENT_ID=269669)。ネットカフェに行って、Youtubeで探して、いくつか観た。例えば、最近撮影されたみたいなこれとか(http://kowaikowaikowai.blog46.fc2.com/blog-category-15.html)。名作「一ミリの女」は勿論だが、「生き霊」とかもすごく面白い。桜金造の「怖い話」が面白いのは、あまり怖がらせようとはしていないで、たんたんと語り、不思議さみたいなものの方が勝っているからだと思う。
彼女が部屋に遊びにきていて、二人だけのはずなのに、台所をいないはずの女がすっと横切る。ここまでは普通なのだが、彼女がその女を指差して、「あっ、わたしだ」と言う、というのがすごく面白い。しかし、何故ぼくはこういう話がこんなに好きなのか。そして、彼女がその台所の女を自分だと分かった理由が、彼女の一番のお気に入りの服を着ているから、というのも面白い。これは生き霊というよりドッペルゲンガーなのだが、それを彼女だけじゃなく、その場にいる(彼女のお気に入りの服を知らない)桜金造も見ている。それに、主にその生き霊に驚き、怖がっているのは桜金造の方で、彼女の反応は、「あっ、わたしだ」という以上は描写されない。この肩すかし感というか、中途半端さこそが面白い。むしろ生き霊よりも彼女の方が幽霊っぽい存在なのだ。あと、「貧乏神」とか、すっごくありふれた凡庸な話なのだが、語りの淡々とした調子と、貧乏神が背中におぶさってもごもごと何か言ってる、というような細部が面白い。
だがしかし、桜金造の「怖い話」は、実際に「見える人」には、もしかすると不評なのかもしれないという気もする。それは、霊を「見ること」についての語りであるよりも、霊について「語ること」についての語りであるようにも思われる。つまり、ぶっちゃけ「文学」なのだ、と。だが、純粋に「見ること」についての「語り」などというものが可能なのだろうか。というかそもそも、霊というのは、言表可能なもの(語り得ること)と可視的なもの(見得るもの)との裂け目にあらわれるものなのだとすれば、語ることの限界と、見ることの限界とが、その限界において重なり合うような境界-離接点で《盲目の言葉と無言の像》(ドゥルーズ)としてあらわれるものなのだと言うべきか。
●引用、メモ。言表可能なものと可視的なものについて。ドゥルーズフーコー』より。
《こうして可視的なものに対して言表が優先することは容易に説明される。『知の考古学』は。言説的形成としての言表の決定的役割を主張することができる。しかし可視性もまた、やはり還元不可能なものなのである。なぜなら可視性は、限定可能なもののある形態に関わっていて、決して限定の形態に還元されてしまうことはないからだ。カントとデカルトの大きな断絶ははここにあった。限定の形態(私は考える)は。ある未限定なもの(私はある)に関与するのではなく、純粋な、限定可能なものの形態(時間-空間)に関与するのだ。問題は、二つの形態、あるいは性格の異なる二種類の条件の整合ということである。私たちは、フーコーにおいて、変形されてはいるが同じ問題を再発見する。二つの「そこにある」の関係、光と言語、限定可能な可視性と限定を行う言表とのあいだの関係という問題である。》
モーリス・ブランショはいっている。非理性と狂気のあいだの差異と衝突、と。『監獄の誕生』はこれに隣接するテーマを深化しながら、再びとりあげることになる。罪の可視性としての監獄は、表現の形態としての刑法から派生してくるものではない。それは全く別の方向から、法的なものではなく「規律的」な方向からやってくる。そして刑法の方は、監獄に依存することなく「犯罪行為」についての言表を生み出すのだ。あたかも刑法はいつも何らかの仕方で、これは監獄ではない、と言うことになるように……。二つの形態は、考古学的な意味でのゲシュタルト形成において、同じ形成、同じ発生、あるいは同じ系譜をもってはいないのだ。しかし、たとえ奇策を通じてではあっても、やはり出会いは存在する。監獄は、刑事上の犯人を、ある別の登場人物で置き換え、この置き換えによって、犯罪行為を生産し、再生産する。そのとき同時に、法は囚人を生産し、再生産するのだ。何らかの地層や敷居の上で、両者のあいだに連帯が結ばれては解かれ、交渉が成立しては解体する。フーコーにとってもブランショにとっても、無関係がやはりなお関係であり、もっとも深い関係でさえあるということは、どんなふうに説明されるだろうか。》
《真なるものは、二つの形態のあいだの一致によっても、共通の形態によっても、対応関係によっても定義されないのだ。話すことと見ることとのあいだ、言表可能なものと可視的なものとのあいだには分離がある。「われわれが見るものは、決してわれわれの言うことのなかに住まってはいない。」また逆もいえる。連結は二つの理由で不可能である。言表は、それ自体に固有の相関的な対象をもっているのであって、論理学がのぞむように、物の状態や可視的な対象を指示する命題ではないのだ。しかし、可視的なものもまた、現象学がのぞむように、無言の意味、言語において実現されることになる潜在的シニフィアンなどもってはいない。古文書や、視聴覚的なものは、離接的なのである。こうして見ることと話すことの分離のもっとも完璧な例は、映画のなかにあることは驚くにあたらない。ストローブ、ジーバーベルク、マルグリット・デュラスにおいて、一方で声は、場所をもたない一つの物語のようにあらわれ、そして他方で可視的なものは、物語をもたない空虚な場所のようにあらわれる。》
《「ここで、言語はその内部で、円形に配置される。それが見させようとするものを隠し、それがまなざしに対して与えようとしたものをまなざしから逃げさせ、見えない空洞にむけて、めまいするような速さで流れていきながら。この見えない空洞で、物は近づき難いものとなり、言語は狂ったように物を追いかけながら消えてしまう。」(『レーモン・ルーセルフーコー) カントはすでに、このような冒険を通過したのだ。直感が、限定可能なものの形態を限定の形態に対立させ続ける、ということなしには、悟性の自発性はその限定を直感の受容性に対して及ぼすことがない。それゆえ、二つの形態の彼方に、本質的に「神秘的で」、それらの整合を真理として配慮することのできるような、第三の審級をもうけなくてはならない。それは想像力の図式であった。》