●磯崎新による桂離宮への言及はさすがに面白い(「カツラ---その両義的空間」『建築における「日本的なもの」』所収)。以下、メモとして引用する。
まず、ブルーノ・タウトによる桂(近代建築の規範を伝統的過去に見出す)、堀口捨己による桂(近代主義的なものと民族主義的なものの融合)、丹下健三による桂(弥生=貴族的なものと縄文=民衆的なものの葛藤)を整理する。そして、自身の桂への「読み」として、初代トシヒト(反武家的傾向と王朝文化への傾倒)と、二代トシタダ(武家的な文化を柔軟に取り入れる)との世代差や時間的スパンの長さ(政治的状況の変化など)からくる、(必ずしも事前に計画されていたわけではない、偶発的な)異なる様式の折り重なりがあることと、それら多様な(相容れない)様式を「危うく共存させる」遠州好みという統合原理によって成り立っている、という見解を示している。実際に小堀遠州の手が入っていない(小堀遠州はかかわっていない)としても、そこには一つの統合原理としての遠州好みが働いているのだ、と。
《小堀遠州は、古田織部から、道具の置き方に「隅掛け」または「筋懸け」が肝要であると教えられたと伝えられている。(…)斜線による動的均衡である。森蘊と中村利則の整理した「遠州好み」は私にはこの「斜線」に要約可能と思える。ここには二つの視点が含まれる。まずは斜線の向こう側の構図で、ここには二つの相反する要素が対置されている。もうひとつは空間内を横切る身体が継起的にみいだす焦点の出現である。これも斜線としてとらえられよう。「利休好み」の待庵は、閉ざされ、殆ど動くことのままならぬ極小空間である。鬼気迫る闇が立ちこめる。意識はこのとき身体の内部を貫いて未知の世界へと下降する。「遠州好み」の忘筌はこれにたいして、通過交通路の曲がり角の位置にあり。空間は外部に向かって開いており、陽光が明かり障子を通過し、胡粉摺りの白い天井にバウンスしながらも浅い奥行きをもつ舞台のような床の間、点座前へくまなくひろがる。ここは狐蓬庵方丈と書院直入軒が駒の手型に接続するコーナーである。視線は内部と外部の両方へひきつけられる。これもまた斜線を介しての異なるものの対置になる。闇から陽光へ、囲い込まれた極小空間から、通過することさえできる解放空間へ、中心から斜線へ。これが「わび」から「綺麗さび」へり移行と語られる。「好み」がこのような美意識のちがいによって形式化された事例である。繰り返すが、この好みに冠された固有名はもはや実在したその人の痕跡ではなく、彼ら「ノ心ノ」、すなわち意識の延長であるということができる。》
《利休の茶席には、常に求心的な安定性がみられる。ここには空間を支配する点(主人)としての利休その人の存在がかい間見える。だが遠州(たち)がつくりだそうとしたのは斜線の錯綜する非統一的な空間で、二つ以上の引力が作用して、身体も視線も、不安定な側へとひき込まれる。もはや全体を支配する圧倒的な個などない。背後から見えない何物かが、おそらくその席に不在のまま、突き動かそうとしている。》
●これはこれとして「磯崎新」の見立てだが、実際に桂の空間を経験した描写がさすがに納得できるものだ。
《初代トシヒトが桂を構想したとき(一六一五年以降)、桂は、瓜畑のなかにある簡素な茶席であった。古書院がそのときの建物であろうとみられるが、池は、いまの神仙島のある周辺だけであったろう。このあたり、池の端はやわらかい曲線をえがき、寝殿造り前庭の面影が残っている。》
《この初期の庭園から、池が東北側の松琴亭と、西南側の笑意軒前の二つの方向に、その後拡張されている。これは、それぞれまったく異なった特徴的な手法をもっており、ともに二代トシタダの手によると考えられる。》
《松琴亭前の池は中央に天の橋立を模した島があり、全体に岸辺は石組みによって構成されている。初代トシヒトの妻常照院の生国若狭から、天橋の立のモチーフがとられたといわれるが、こみいった石組みは、ここが松琴亭に併設されている囲い(茶室)へ御幸門脇の御腰掛から卍亭を横にみて到達する露地庭の扱いにもなっている。》
《いっぽう、笑意軒の池は、単純な直線で、その護岸にも切り石が使われ、全体に幾何学的に構成されている。また、新御殿前の芝生の敷かれた単純な空間である桜の馬場と連なって、西南側を強い抗静的景観に仕立てている。》
《王朝風の神仙島付近にたいして、この二つの拡張された庭園は、いずれも近世になって生みだされた庭園手法に基づいている。》
《庭園は、水と陸の両方から眺められていた。その際の回遊路の編成は、位置を強制的に決めることになる。庭園内の茶屋は庭に開いた縁側をもっているが、それはここに腰掛けて、庭園を眺める際の目の位置を決める。》
《地面が小高く盛り上げられており、ここに座ると、前面の池の水面が、やや高みから見下ろされる関係になる。書院の月見台からの池面が、奥に深く連なってみえるのに、神仙島の裏側を右手にして、遠景に松琴院を捉えるまったく異なった光景が前面に展開する。その両者ともども池面に映った月を眺めるためだが、微妙な視点の変化が起る。》
《茶室からの眺めを、一定の時間にわたる休止点とするならば、それを連結する苑路は、たえず変化していく光景を小きざみに感知させる装置である。砂利敷き、真、行、草、さまざまなパターンの舗石や飛び石、むくり勾配のちがう各種の橋、石段、坂道など、接地する箇所のテクスチュアがきめ細かく変えられる。それは、歩き方を意図的に規制することによって、呼吸を支配する。速度や回遊路を自在に選択させながらも、あらがわせずに、視線を動かす演出である。》
《この陸上の苑路が、視線をたえまなく振りうごかすように編成されているとすれば、池のうえの舟遊びの差異の視線は、逆にそれを水面近くに固定して、水平の移動だけに限定する。舟がすすむにつれて、光景がむこうから立ち現われてくる仕組みである。》
《回遊路の編成は、庭園のひろがりを感知させることにあるのだが、桂のこの庭だけでなく、日本の庭園は、西洋の整形式の庭園と好対照をなしている。整形式を編成する手がかりは、中心軸上に固定された視点である。(…)空間はしたがって、軸線上に奥にむかって、ひたすらひろげられる。それに比較して、回遊性の視線は、空間内に固定した軸の形成をたえず拒絶することになる。視線は常に移動する。そのとき光景は分断されていく。その切り取られた断片を連結する仕掛けが、陸と水上に設定される回遊路なのである。雁行配置が平面の重点とズレによって空間の深奥性を表現したように、回遊する視線は、光景を断片化して、それをたたみ合わせ円環的な構造を導きだす。桂はその形成過程において、必要に応じてこの回遊の視線をみいだした。それ故に多くの回遊式庭園のように、あらかじめはかられた構図の生みえない、不意の美に満ちている。その理由もまた、時間的な重層のうえに成立したことに求められよう。》
●だが、これではまだ「ぼくが経験したもの」の強烈さに対して足りていない感じがある。これを越える見解をなんとか組み立てたい。