●次に作品論を書く予定の小説を地図を参照しながら読んでいて気づいたのだが、その小説集の表題作には具体的な地名が書かれていない。正確には、「東京」とか「イラク」とか「ロンドン」とか、そういうざっくりした地名は出てくるけど、舞台となる「ここ」の場所を特定する地名がない。その場所は、小説を読めば、地元に住んでいる人ならすぐにここだと分かるはずだし、土地勘のないぼくにも地図を参照すればたやすく特定できる、というように書いてある。場所を特定するためのしるしは多く書き込まれている(地図で調べると、ローソンも郵便局もちゃんとあるべきところにある)。にもかかわらず地名が抜けている。それも、かなりわざとらしく抜けている。連作の、他の作品にははっきり書き込まれているのに、その完結編である表題作にはない。地名がないことは、この作家の作品としては特異なことだ。そしてこの小説のあり様にとって、それはおそらくとても重要なことだ。現実と作品(フィクション)との参照関係がいままでの作品とは少し異なるということであるはずだ。しかし、これまでも何度も読んだのに、なんでそこに気づかなかったのか。
そう言えば、表題昨以外にも、もうひとつ地名のない小説があった。それもヒントになる気がする。
(表題作は、全体的に固有名を避ける傾向がある気がするけど、アイドルグループ、スポーツ選手、映画やテレビ番組のタイトルなどは普通に出てくくる。コンビニではなく「ローソン」だし、デパートではなく「高島屋」だ。なのに「商業施設」なんていう言葉が出てくる。地名も、「ここ」に関するものではなく、「遠く」のものなら書き込まれている。)
●その作品論のための資料として、ネットカフェに行って、鉄道マニアの撮った動画をいろいろ検索して観る。○○線、××駅から△△駅までの車窓の風景とか、そういうのがYouTubeにはたくさんあって、今回は現地まで取材に行けないので、それを見て参考にする。探してみると、小説の冒頭の場面である、地下鉄が地上に出る瞬間の動画とかもあって(小説だと夜中だけど、動画は昼間だった)驚いた。
●散歩していて、途中にあった八百屋に小振りのみかんが一個九円で売っていたので、十個買って、歩きながら食べた。みかんは微妙に高い(オレンジとかのが安い)ので、一冬まったくみかんを食べない年とかもある。昔、実家では、みかんは常に段ボール箱に入ってどかっとあるのが当然だったので、その時はまさか、将来、みかんを食べない冬が来るなどとは予想もしていなかった。でも、今年は、とにかく一度は食べた。