●お金がないのはいつものことだが、それにしてもお金がない。喫茶店へ行って、一杯三百円のコーヒーで粘って、本を読んだり、原稿について考えたりすると、もう、それ以上ほとんど使えるお金がなくなる。お腹がすくと、ご飯を炊いて醤油を垂らして食べる。土鍋で、わざと焦げ付かせたご飯に醤油を垂らすと、香ばしくてけっこうおいしいのだ。友人の個展を観に行きたいのだが、国分寺までの片道二百九十円の交通費の捻出がむつかしい。ホン・サンスソクーロフの映画が気になるのだが、観に行くのは夢のように遠いことのような気がする。画材も買えないが、それはまだなんとかストックがある。たくさん歩くので、靴下のかかとのところにすぐ穴があくのだが、穴のない靴下が少なくなってきた。そんななか、今日、喫茶店から部屋に戻ってくると「郵便物等お預かりのお知らせ」という紙片があり、見ると、原稿料が現金書留で送られてきたようだった。明日は、これを受け取れるだろう。もちろん、たいした額ではないが、とりあえずこれで、醤油かけご飯以外のものが食べられる。友人の個展にも行ける。映画に行けるかどうかは微妙なところだが。それにしてもこれ、いつ書いた原稿の原稿料なのだったか。もしかしたら、去年じゃなかっただろうか。まあ、ばっくれられなくてよかったし、お金のことは、みんな大変なのだろうと思う。それに、このタイミングでというのは、とても助かることなのだった。
●テレビで、認知症だった南田洋子さんが、亡くなる二週間前に、テレビカメラの前で十分間だけ、奇跡的にしっかりとした状態に戻った、その様子を流していた。しかしその状態は十分しか続かなかった。
人の脳はとても複雑だから、おそらく誰でも、いつも同じような状態がキープされているわけではないだろう。脳では、無数の情報処理が同時に行われているはずで、だからそれは本来、気象状況とか天気と同じくらい不安定であるはずで、しかし、それを全体として制御し、とりあえず大ざっぱにある一定の状態として保たせている力というのがあり、だからこそ、わたしはいつも(ある程度)一定したわたしであり、あの人はほぼ一定してあの人なのだろう。優秀な人は大抵いつでも優秀だし、下らない人はいつも下らない。でも、本当にそうなのだろうか。
精神分析は、わたしをある程度「わたし」として一定に保つ力を、後天的にインストールされた人間-言語というOSだとするし、それに対し、ある種の科学主義の人は、そんなのはカルトと同じで、脳というハードを解明すれは、その制御の仕組みも理解されるはずだとする。しかし普通に考えれば、その二者は対立するのではなく相補的なはずで、例えば認知症は、脳という器官(ハード)の問題だろうけど、人間の「精神の怪異」のすべてをハードで説明出来るとするのは、コンピューターの誤作動のすべてをハードの欠陥とするのと同じくらい乱暴なことではないだろうか。
いや、そんなどうでもいいことを言いたいのではなかった。まさにハードとしての脳の機能が壊れてしまった認知症の人が、その壊れたハードの上で、ほんの十分間でも壊れる以前の機能を回復させたという時、そこで一体何が起こっているのだろうか、ということなのだ。何が起こっているのだろうかというのはつまり、その時、その場で、南田洋子さんはどんな質の経験をしたのだろうか、ということでもある。その時、なにを感じ、どんな時間のなかにいて、どんな経験が生きられたのか。その十分間という時間は、どういう質の十分なのだろうか。その時にだけ成立した経験は、南田さんが再び認知症の症状へと帰って行った時には消えてしまったのだろうか。この、それ自体が彼女自身の人生の想起であるかのような、他から切り離された十分という時間を、その後の意識の混濁のなかで、南田さんは、何かしらの形で想起し得たのだろうか。想起し得たとしたら、それはどんな形をしたものなのだろうか。そして、その時の状態に戻ることなく南田さんが亡くなったのだとしたら、その経験はもうこの世界のどこにも存在しなくなったというのだろうか。
芸術の野心の一つは、そのような「十分間」を再構成する、ということにあるのではないか。