四谷アート・ステュディウムに平倉圭のレクチャーを聞きに行く

●四谷アート・ステュディウムに平倉圭のレクチャーを聞きに(観に)行く。(脱-知覚的不確実性/映画と「顔面」の現在)とても面白かった。特に、ゴダールに関しては、ここまでの明解な分析は、ぼくは他には知らない。そこまでやるのか、というくらいの細かな分析は、ゴダールの作品に関してはとても妥当で、分析のための分析や、無理矢理のこじつけというのではない、強い説得力を感じた。(ぼくがいままで読んだあらゆるゴダール論が、色あせて感じられてしまうくらいだ。)ただ、ここまであらわにされると、ゴダールという作家の「謎」の部分がかなり目減りして、魅惑も目減りしてしまうような感じではあるけど。ゴダールについて語る人の多くは、「固有名」というところで躓くのだと思うけど、むしろゴダールは固有名なんてどうでもいい人なのだ。(ただ、平倉氏が分析するような、ゴダールのある種のイメージ至上主義みたいな傾向は、八十年代終わりころ、具体的には『右側に気をつけろ』や『ゴダールリア王』あたりから顕著になり、『映画史』でもっとも極端な形をとると思うのだけど、ぼく個人としては、ゴダールのそのような傾向の極端化に関しては否定的で、『勝手に逃げろ/人生』とか『パッション』あたりの作品の方がずっと良いと思うのだけど。勿論、そこにも同様な原理ははたらいているのだけど、そこまで極端にはなっていないというか、技術的にまだ「粗い」感じがあって、その粗さのなかにこそゴダール的な運動神経が宿っていて、素晴らしいと思うのだが。)
ゴダールが、一旦指示対象から切り離されたイメージや音声を、安易に「現実」に着地されることなく(現実的には不確定なままで)、それ固有の原理(類似、同期、ズレ、リズム等)によってモンタージュすることで作品をつくり、そこになにがしかの強度をつくりだそうとしている、というのは確かだとして(おそらく、「復活の日にイメージは到来するだろう」みたいな、ゴダールキリスト教化は、思想的なものというよりも、この制作の原理から導き出されたものであるだろう)、そのような傾向が顕著になるにしたがって、「手」というイメージが前に出て来るように、ぼくには思われる。(例えば、フィルムを安全ピンとかクリップみたいなもので繋ごうとするイメージが『ゴダールリア王』や『JLG/JLG』にみられるし、『映画史』では手のイメージが頻出する。)つまり、イメージや音声が指示対象(素朴な意味での「現実」)から切り離されてしまっていることの「不安」を補うのは、ゴダールにとって編集があくまで「手仕事」である、という事実なのだと思われる。たんに、イメージや音声を「操作」しているのではなく、モンタージュは手仕事であり、それは私の手を媒介として生まれるものなのだ、というような。(レンズを磨くスピノザの「手」のような。)言葉によって、イメージと現実との関係を安易に確定することを拒むゴダールは、しかしその関係の保証(イメージが現実と完全に切れてしまってはいないことの保証)を、モンタージュが「手仕事」であることに求めているように感じられる。しかしそのことは、モンタージュを行う高度な技術をもった「手」の存在を特権化し、つまり、こんなにモンタージュの上手いオレの存在によってこそ、イメージと現実とが繋がれるのだ、ということにもなりかねなくて、実際、『映画史』のラスト(のゴダールの顔)っていうのはそういうことなのではないだろうか。
●とはいえ、平倉レクチャーに従うのなら、ゴダールにおいて、自身の顔のイメージは、決して自己同一性の保証とはならないし、自身の署名とはならない、ということになる。このレクチャーで最も衝撃的だったのは、ゴダールウッディ・アレンを評価する理由は、自分と顔が似ているからだ、という指摘で、これはまさに目から鱗というか、コロンブスの卵というか、言われてみればまったくその通りだと納得する。『ゴダールリア王』のラストで、唐突にウッディ・アレンが登場するのを「なんで?」と思いながら、ぼくはただその唐突さを面白がっていただけなのだけど、そこにはそういう理由があるのだ。つまりゴダールは、自分と顔が「似ている」というだけの理由で、自分が演じたプラギー教授のつくった映画を、教授にかわって完成させる「後継者(あるいは自身の生まれ変わり)」としてウッディ・アレンを指名してしまうような、いいかげんな(つまり、現実的な原理の上ではいいかげんにしか見えないほどに、イメージの原理にとことん忠実な)人なのだ。(ゴダールが「固有名」に関心がない人だ、というのはそういう意味でだ。)平倉氏のレクチャーを一言で要約するとすれば、そういうことになる。この指摘は?少なくとも八十年代後半以降のゴダールの本質を鋭くついていると思う。