●言葉を、それを話した(それを書いた)人から切り離して、その意味や構造を探ってみても、それは大して面白いことにはならないんじゃないだろうか。問題なのは、その文はどのような意味をもつか、それは真なのか偽なのか、ということではなく、なぜ(どのような欲望によって)、その人は「そのように言う」のか、であり、それを話す人が、それを話した時に脳内(あるいは身体全体)で行っている複雑な演算過程がどうなっているのか、ではないだろうか。
昨日観た『甲野善紀身体操作術』(藤井謙二郎)では、甲野氏は割合多弁であるという印象をうける。言葉によって何かを把握することの危険性を説きつつも、甲野氏は、自分の技についていろいろな言葉を用いて相手になんとか説明しようとしている。それは、講演会(講習会)みたいな場だけではなく、相手を伴った稽古の時も、自分が今相手にかけている技について、言葉で説明しつつ、それを行ったりしている。しかし一方で、この言葉は本当に相手に対して向けられているものなのか、という疑問もある。これはむしろ独り言に近いものであり、今、自分のなかで動いている感覚について、何かしらのイメージを与え、それによって自省的に考えるために、言葉がつぶやかれているのではないか、という感じもある。(しかし、言葉が作動する時、そこには自動的に、幾分かは他者の感触がたちあがるはずだろう。)この時に、身体のなかで起こっているであろう、動きつつある感覚の変革や構築と、それを表現する、半ば独り言のようにして「出て来る」言葉とは、どのような関係をもっているのだろうか、というところに、ぼくは興味がある。それはどの程度感覚を説明するのか、または、説明とは異なる別の関係があるのか。
例えば、「分身の術」について、雑誌の取材に応えている場面が映画にはある。分身の術をかける際、一方に相手の動きにつき合っている自分がいて、同時に、それとはまったく違う動きをして相手を倒してしまう自分がいる、というようなことを喋っている。(分身の術の稽古の相手をした格闘家は、自分の側にも「いけるっていう感じ」を幾分かもたされていて、それでも、ぐっと差し込まれるから、「膝が抜けるかと思った」と言っている。)この時、取材していた編集者が、「それって仮面をかぶるっていうことですか」という風に「自分の言葉」に書き換えようとすると、ちょっとむっとしたような感じて、「それは、言い方にすぎません」と、割合強い感じの否定をしている。甲野氏は別の講演会で、自身の技を実演しつつ、それを言葉で説明した後、しかしこんな言い方はおかしくて、矛盾がある、言葉では言えないようなことをやっているのだから言葉にすると矛盾が出るのは当然で、矛盾があるということは、ぼくの言葉には嘘があるということで、人の言う言葉を簡単に信じないように、という言い方をする。つまり甲野氏は、言葉はあくまで、暫定的な近似値のイメージを説明しているに過ぎないという保留を置く。(言葉の上で理解したって理解したことにならない、と。)しかし、その「近似値に過ぎないもの」でも、他人が別の言葉で置き換えようとすると、それははっきりと「違う」ということになる。たとえ近似値に過ぎないとしても、ある感覚のなかから、「そのような言い方」が出て来たということには何かしらの必然性があって、それを「意味」が同じであるからといって(言葉同士の関連性によって、つまり言語の秩序に従って)、勝手に別の言い方にはかえられない、ということだろう。
●別の話。映画を観ただけの範囲での感想でしかないのだが、不思議なのは、甲野氏には実践という概念がほとんどないように感じられたことだ。関係者の一人がインタビューに答えていたように、それは延々「詰め将棋」ばかりをやっているような感じにもみえる。それは、対戦相手という他者がいないというよりも、そもそも「勝ち負け」という概念がない探求のように思えた。甲野氏が有名になったのは、多くの人にとってその考え方や技が「使える」ものであったからだろうけど、甲野氏自身の興味はただ自身の身体を用いた探求のみにあって、それを「使う」ことにはほとんど興味がないようにみえるところが面白い。