昨日の平倉氏のレクチャーは

●夕方になって雷の音が響き、やがて雨が落ちる音が聞こえた。遠くで響く、光りと大きくズレた雷の音。暮れて暗くなるのとは違った、急速な暗さ。傘をさして買い物に出かけると、急な雷と雨のせいか、途中までまったく人とすれ違わない。不穏な暗さの、人の気配のない道を、五分も歩いていると、何かしらの「外へ出てはいけない」理由があり、それが多くの人に共有されているのに、自分だけがそれを知らず、のこのことヤバい領域に足を踏み入れてしまっているんじゃないか、というような不安が、小さく浮かんでくる。このような不安は、夢のなかでもつような感情に似ている。
●昨日の平倉氏のレクチャーは、ゴダールに関する部分はとても説得力があったのだけど、ゴダールの映画から取り出した様々な原理を、他の映画(『叫』、『デジャヴ』、『時をかける少女』)の分析に応用した後半部分には、やや疑問を感じた。つまりそれは、ゴダールと他の映画作家とは「違う」という単純な事実を示している。
例えば、黒沢清『叫』では、確かに、「見間違えること(似ていると区別出来ないこと)」、「見えているはずなのに見ていないこと」、「見ているはずのことを忘れてしまうこと」というようなイメージの(不確定性の)原理に忠実に組織されているという側面はある。でも、黒沢清には、もう一方で、決して見間違えることがなく、決して忘れてしまうこともない「幽霊」という存在がある。この「幽霊」という存在は、イメージの原理(あるいは知覚の不確定性の原理)の内部にはあり得ない何かなのだ。黒沢清においては、イメージの内部には決してその場所を得ることのない「幽霊」に対する、ほとんど反復強迫的な執着こそが、イメージの生成を促していると言えるのではないか。そして、だからこそ黒沢清は、世界(=イメージの原理によって構築されたもの)を、ワンパターンのように何度も滅亡させなければ気が済まないのだと思われる。黒沢清においては、ゴダールウッディ・アレンとが「似ている」という事実によって同一性が曖昧になってしまうような世界は、あくまでトリック(幻影)として成立していて、「幽霊」はそのような欺瞞を決してゆるさない。しかし、だからと言って同一性が回復されたり、イメージと指示対象との関係が確定されたりすることもなく(それが信じられるわけではなく)、何度も繰り返し世界のすべてが破壊されることによってしか、その欺瞞は解消されない(許されない)。この点をみないのならば、黒沢清については、何も言っていないに等しいんじゃないかと思う。
あるいは『時をかける少女』(細田守)について。平倉氏はこの映画のラストシーンについて言及する。男の子が女の子に顔を近づける。途中までは、それはキスをしようとしているとしか思えない運動の軌跡をみせる。しかしそれは最後の瞬間にふっといなされ、男の子は女の子の耳元で「未来で待ってる」と告げる。このようなシーンはアニメであるからこそ可能で、実写では不可能である。何故なら、人の顔には「厚み」があるので、途中までキスするような動きをみせつつ、なめらかな動きを保ったまま急に耳元へと口を移動させることは実際には出来ない、と。アニメが平面であることを利用して、細田守はこのような、キスしている、と同時に、キスしていない、というシーンを可能にしている、と。
このような指摘に、一度は成る程と感心させられるのだけど、(ぼくがこの映画を「嫌いだ」ということもあって)うっすらとした疑いが戻ってくる。ぼくがこの映画を、それなりに立派な作品だとは思いつつも「嫌い」なのは、この映画には、アニメの快感原則に対して「蓋をする」ような抑圧が常に与えられていて、それによって表面上をとりつくろうような操作が至るところに感じられるからだ。もっとも分り易い例を挙げる。この映画の主人公の女の子のキャラからは、一見、性的な(媚態の)要素は剥奪されているように見える。女の子と男の子たちとの関係からも、そのような匂いは消されている。しかしそれは本当だろうか。女の子は、わざとらしいくらい(つまり、嫌でもそこに目がゆくような)過剰に短いスカートを履かされている。夏が舞台なので薄着でもある。自転車の二人乗りのような、男女に身体的接触も多く描かれる。入浴シーンもある。つまり、あきらかに性的な媚態が、そこかしこにバラまかれている。観客は、意識下のレベルでは多様な性的媚態を味わっているはずであろう。しかし、それが意識にのぼるほんの一歩手前で「さわやか」がやってきて、それに蓋をする。それは、欲望の多様な運動を解放せず、どこか暗いところに閉じ込めたまま、表面上だけは「さわやか」によって取り繕う。まるで、性的な欲望を感じることは「悪いこと(隠すべきこと)」なのだと命ずるかのように。これは黒沢清的に言えば、まさに「幽霊」を見なかったことにする欺瞞以外の何なのだろうか、と思う。
そしてこのラストシーンもまた、そのような欺瞞的な操作の一つなのではないか。ここでは二人はあきらかに「キスしている」のだし、観客の欲望もそれを望んでいる。にも関わらず、実際にはしているにもかかわらず、言葉の上だけでは「(そんな「いけないこと」は)決してしていない」と強弁するかのような誤摩化しが、ここでは行われているのではないか。それによって観客は、一方で自身の欲望を満足させつつも、もう一方で、そのような自身の欲望の存在を自覚することのないまま、安心して映画を観終わることが出来る。まあ、だから、巧妙だと言う意味で立派ではあるのだが、そのような巧妙さは、ゴダール的なものからも、黒沢清的なものからも、最も遠いものであると思われる。