四日にあった平倉圭のレクチャーでは

●四日にあった平倉圭のレクチャーでは、似ている、ということが同一性の保証にはならない、という話があった。ほとんどそっくりな二つの顔を、われわれは見間違うし、あるいは、同一人物の顔を、別人だと思うかもしれない。その同一性を保証するのは、名前であったり、あるいは指紋とかDNAとかだったりするしかないのか。例えば、ゴダールの『アワーミュージック』のラストのナレーションは誰が語っているのか。その声だけではよく分らない。そして、パンフレットをみてみると、そこにはその声はオルガの声だと書いてある。そうすると、ああ、あれはオルガだったのか、と納得する。自らの感覚よりも、言葉として書いてある(言葉として保証されている)ことを、人は信じがちだ。しかし、パンフレットにそう書いた人は、何によってそれをオルガだと断定したのか。「作者」であるゴダールがそう言ったということなのか。しかし、作者が作品のすべてを知っているわけではないのは当然のことだし、作者(の「発言」)が作品読解の絶対的な根拠になるわけではない。平倉氏に従うとすれば、それが誰の声なのかは決定出来ない、という風に見るのが(つまり、そのような知覚の不確定性のなかに留まることこそが、それの感触を感じることが)、ゴダールの映画の、作品の有り様(作者の主張ではなく)に忠実な見方である、ということだった。
ちょっと違うのだが、今日、ある作家のある小説を読んで、それについて書いている時に、それと近い経験をした。ぼくはその小説について「ある発見」をした。それは、その小説を四回めか五回目に読んではじめて発見したことだ。そして、その発見の過程と根拠を書いたのだけど、それを書いていて不安になった。もしかすると、ぼく以外の人はこんなことは一回読めばかんたんに分ることなのではないか、と。そしてもう一方で、これは、たんにぼくの恣意的な深読みに過ぎないのではないのか、と。その小説は、きわめて暗号的な細部に満ちていて、様々な深読みや、読みの混乱を誘うように出来ているのだが、そのような細部の散乱にできるだけまどわされないで、つとめて素朴に、リテラルに読もうとしたとき、「えっ、こんなことなの」というような「それ」が見えて来た。一度みえてしまえば、それ以外にあり得ないというような強いリアリティが生まれてしまう。だから、「これはぼくの恣意的な深読みに過ぎないんじゃないか」、という不安は、本当は大したことではない。重要なのは、自分にとっては「発見」でも、「こんなことは、普通に読めば誰でもが当然気づくことなのではないか」という不安の方だ。だが、この不安も、同じ小説を読んだ何人かの人に聞いてみれば解消するのだろう。だから、ぼくの感じた不安はどちらも本質的なものではない。それでも、このような不安がふっと浮かんだその時に、われわれは、作品を(そしてこの現実の世界をも)、一人一人異なった(切り離された)、それぞれの身体、能力、感覚、関心等々によって、バラバラに、孤独ななかで受け取っているのだなあ、という感触が、なまなましく浮かんでくる。
高校二年の、最後の水泳の授業のことを今でも憶えている。その日はクロールの五十メートルのタイムをとって、それをもとに水泳の成績がつくことになっていた。で、五十メートルを泳ぎきれなかった者は、自動的に夏休みに一週間の水泳の補習となる。ぼくは水泳が苦手で、クロールではせいぜい二十五メートルくらいがやっとで、それまで五十メートル泳げたことがなかった。ぼくはその夏に映画をつくる計画があったこともあって、絶対補習なんてまっぴらだと思って、文字通り死ぬ思いで五十メートルを泳いでしまった。(今から考えれば、そんな無理して泳ぎきってしまうより、補習に出て多少でも泳ぎが上手くなった方が、その後の人生で愉しみが増えたかもしれないと思うのだが、その時は夏休みを一週間も潰されるのはとんでもないと思った。)その時、(特にターンの後の後半)半端ではない苦しさのなかで、笑ってしまうくらいに大げさなことなのだが、今、自分に代わって五十メートルを泳いでくれる存在も、この苦しさやキツさを代替してくれる存在も、この宇宙には決して存在しないのだなあ、というような、ほとんど生まれて初めて感じるような、もの凄い孤独感を感じたのだった。これ(「これ」とは、「この苦しさ」なのか、それを感じている「私という存在」なのか)は自分が引き受けるより仕方が無いものなのだ、というような。作品をつくる時でも観る(読む)時でも、ぼくはいつもその時に感じたことに近い感じをもつ。つまり、「これ」はあくまで「自分の感覚」として引き受け、処理するしか、どうしようもない「なにものか」なのだ、というような感じ。
他人の作品を観たり、あるいは、何かしらの「作品について書かれたもの」を読んだりするときも、それが、固有名や既にある価値基準(既に認められている言説や規則、あるいは「問題」)に頼るだけでなく、あるいは、転移によって成立する共有される感覚などのなかでだけ構築されているのではなく(あるいは、そこから逆算された「新しさ」によるのでもなく)、そのなかに、その人の「孤独の感触」が感じられるかどうかが、ぼくにとって、それを信用出来るのか出来ないのかの違いになっているように思う。(この、孤独の感触こそが「クオリア」っていうんじゃないかと思うんだけど。)